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今月の言葉

2017年12月1日

 今から、40年ほども前のこと。この稿の筆者は、大学の卒業旅行に出かけ、ロンドンの親戚Iさんの家に世話になっていた。Iさんは、東大ラグビー部の出身で、海外遠征で英国にやってくる後輩たちの面倒もよく見ていたようだ。そんなIさんの家の常連客の一人に、F君という、私と同年輩の有名なラグビー選手がいた。F君の大学ではそのころちょっとした不祥事があってラグビー部が休部となり、F君は一人で英国にラグビー留学をしていたようだ。

 ある日のこと、F君と話していると、彼がしみじみとこう言った。「自分は、英国のクラブチームに入ってみて、初めてラグビーの楽しさがわかったような気がします。」「練習の量なんか、日本の大学チームのほうがずっと多いのですよ。」「こちらのチームには先輩後輩もない。なにか毎日楽しく遊んでいるみたいで、でもゲームになればずっとこちらのチームのほうが強いのです。」

 それから、私たちは、なぜ日本の大学ラグビー部より、イギリスのクラブチームのほうが強いのかを、語り合った。体格、技術、伝統などあれこれ理由はあるかもしれないが、要するに「こちらの方が楽しい」とF君はいうのだ。楽しいから、短い練習時間でも、チームがみんな生き生きとプレーし、試合になればめっぽう強いのだ、と。

 F君も、私も、少年時代はいわゆるスポ根漫画で育った世代だ。「巨人の星」の星飛雄馬が、涙を流しながら、うさぎ跳びを繰り返し、大リーグギブスでおのれを鍛えるのを見て育ったのだ。日本の運動部の練習では、球技でも、剣術や柔道でも、練習は先ず「型から入る」のが常道で、ロクに型も覚えないうちからゲームを楽しもうなどと考える者は「十年早い」と排斥されたものだ。

 パスやキャッチボール、素振り、千本ノック、うさぎ跳び、いずれも「楽しくない」。型を覚える苦しい努力を長い年月繰り返した人が「先輩」で、したがって先輩は技量の有無にかかわらず、その努力の長さの故に尊敬しなければならない。日本の運動部全体が、そのような型を覚える努力の長さに基づく上下関係によって成立しているのである。生まれながらに運動神経などまるでなく、スポーツ音痴だった筆者は、中学生の頃に一年ほど運動部をやってみたものの、その文化になじめず、すぐにやめてしまった。だが、あらゆる意味でスポーツ天才少年だったF君が、日本の運動部社会を生き抜いて、トップ選手になっていくには、ずいぶん複雑な思いがあったのではないか。

 さて、何ごとも「型を覚える」のは「ほんものを極める」ための重要なプロセスではある。が、スポーツであっても、芸能であっても、人間が「型を覚える」ことに真剣になるためには、まずスポーツや芸能の楽しさという「動機付け」が必要なのではないか。たとえば、山登りを想定すると、小さい山の頂上を極める楽しさを知らずに、「型から入って」高い山を登ろうとすれば、苦しいだけなのではないか。

 平たく言えば、楽しさを知らずに「型を学ぶ」のは、かえってその道の大成を妨げると思うのだ。

 では、何故日本には、このようなスポ根文化が定着してしまったのか。それは世襲ということと関係があると、この稿の筆者は思っている。剣術、歌舞伎等々日本的修行文化の元となったのはみな世襲の職業である。立派な武士になる、親を継ぐ役者になる、つまり「世襲」という動機によって、「楽しさ」という動機を置き換えることができたからこそ、「型から入る」修行に耐えられたのではないか。そう言えば、「巨人の星」も、ある意味で父子の野球世襲の物語であった。