スキーが、1911年オーストリア陸軍少佐、テオドール・エードラー・フォン・レルヒによって、日本にもたらされたことは、よく知られている。
戦前のスキーは、軍事目的(寒冷の山地を滑って行軍する)か、ごく少数の有閑階級のスポーツ(登山または競技)目的としてしか普及しなかった。レジャー、あるいは遊びとしてのスキーが広く普及するようになったのは、第二次世界大戦後のことである。
以下時代を追って、日本人の遊びとしてのスキーについて述べたい。
戦後期(1945-1964)終戦から東京オリンピックまでの時期は、戦前と同様、国民大衆にとってスキーは遠い存在。一部の学生が、登山の一部として、山スキーに興じた時代である。「岩木のおろしが 吹くなら吹けよ 山から山へと われらは走る」という「シーハイルの歌」(作詞:林柾次郎)が歌声喫茶などで歌われた。シーハイルというのは、ドイツ語で「スキー万歳」という程の意味。雪山を行く学生は、スキーの下にシールという滑走防止用の帯をつけて山の上まで(当然のことながら足で)登り、シールを外して長い下山路を一気に滑降した。もちろん営業用ゲレンデやリフトなどは殆どなく、雪山装備の登山者のみが立ち入れる大自然が、スキーゲレンデであった。
高度成長前期(1964-1972)東京オリンピックから札幌の冬季オリンピックまでの時期。猪谷千春のコルチナ・ダンペッツオ五輪での銀メダル受賞(1956)あたりから国内にも普及し始めた、アルペンスキー用のリフトとゲレンデが、この時期日本中に広まった。まだ交通手段は国鉄の夜行列車。宿泊は民宿が主力であった。が、スキーは、高度成長と共に勃興しつつあった日本の中産階級の「あこがれのレジャー」としての地位を確立した。東宝制作の加山雄三「若大将シリーズ」(スイス=1966年とニュージーランド=1969年)などが度々スキーを取り上げたのもこの頃である。
高度成長後期(1972-1993)札幌オリンピックからバブル崩壊までの時期。アルペン用のゲレンデスキー、リフトとゴンドラという道具立ては変わらないが、宿泊施設は、西武・国土資本などのホテルが民宿に代わり、交通手段は、在来線の鉄道から新幹線と自動車に代わった。このことは、東京都内から夜行に乗らずに、半日以内でスキー場に到達し、その日の内に滑ることが可能になったことを意味する。この時代のスキーを象徴する映画が「私をスキーに連れてって」(1987年製作:ホイチョイ・プロダクションズ、主演原田知世)。スキー場へ着くまでの高速も渋滞、スキー場に着けばゴンドラの乗るまでに1時間以上かかるというような、まさに大衆スキーの絶頂期であった。
バブル崩壊後(1993-現在) スキー市場は、日本経済の長期低落傾向と、中産階級の再分化にまさに軌を一にして、低落、低迷していった。1998年に開催された長野オリンピックも、日本経済低迷への歯止めとはならず、スキー人気の向上にも効果をもたらさなかった。スキー界の覇者、西武・国土資本のオーナーであった堤義明が総会屋への利益供与や、インサイダー取引を問われて引退に追い込まれたのは2004-5年のことである。1993年以降出現したスノーボードを併せても、レジャー産業としてのスキーの売上は、低落にまだ歯止めがかかっていない。最近の傾向としては大衆のスキー離れと言うよりは、むしろ若年人口の減少とスキー不振との相関が指摘されている。
ともあれ、スキーは戦後日本の中産階級と運命を共にしてきた遊びだということは言えると思う。