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TOP今月の言葉氷川丸 2014年07月

今月の言葉

2014年7月1日

氷川丸

 1959年(昭和34年)8月下旬。彼女は、当時29歳。まもなく自分が引退することを既に知っていた。シアトル。いつ来ても懐かしいこの港に入るのもあと何回か・・

 この稿の筆者は当時6歳。彼女の船客の一人として、太平洋を渡り、航海最後の朝早く、喫水線に近い三等船室で目覚めた。陸地は既に前日の夕方バンクーバー島を見ていた。

 夜の間に彼女はバンクーバー島と北米大陸の間の狭い海峡を南下して、シアトルの泊地をめざした。やがて辺りが明るくなると、靄の彼方に埠頭が現れる。税関吏なのか、検疫官なのか、役人とおぼしき米国人が小艇を寄せて乗り込んでくる。三等船室を満たしたフルブライト奨学生達が起き出して、下船の支度を始める。

 彼女、日本郵船氷川丸の就役は1930年(昭和5年)5月13日。日枝丸、平安丸という姉妹船と共にシアトル・バンクーバー航路に投入される貨客船として建造された。サンフランシスコ航路を担う浅間丸・秩父丸(後に鎌倉丸)・龍田丸とともに、船名は各地の神社の名前にちなんでつけられた。第一次世界大戦後「世界の一等国」を自認するようになった我が国が、当時世界に誇ることのできる瀟洒な新鋭船であった。航路の終点シアトルの人々も、交代で北太平洋の定期航路をやってくる三隻の姉妹船を、歓迎し愛してくれた。

 だが、1941年(昭和16年)8月彼女が11歳のとき、日本政府は横浜-シアトルの定期航路を断つ。10月彼女は最後の北米航路を、往路は日本を引き上げる米国人カナダ人、復路は米加在留邦人帰還者を乗せて航海した。そして、12月開戦。

 彼女は帝国海軍に徴用され病院船に改装された。オーシャンライナーの馴染み深い黒の船体は純白に、日本郵船の白地赤二本線のファネル(煙突)マークは赤十字に塗り替えられた。南方に出征した兵士達は、病院船氷川丸の姿を「白鳥」と呼んだという。

 戦争の間、彼女は幸運であった。日本郵船の同僚達が、航空母艦、潜水母艦、輸送船などに改装され、次々と太平洋に沈められていく中、病院船であった彼女は何度か機雷に触れながらもかろうじて生き残った。日本の誇るオーシャンライナーの中でただ一隻。

 敗戦後も辛い日々は続いた。彼女は外地から復員する兵士達を乗せ、さらに国内航路も走った。自分の本来の仕事である北米航路に復帰することが出来たのは、1950年(昭和25年)、定期航路への復帰はさらにその二年後であった。船齢20歳を超えても彼女は走った。戦前の海運日本、オーシャンライナーの誇りを只一隻で担った。彼女が行くミッドウェーの沖やアリューシャンの近海は、かつての戦場の海。その海を、彼女は日本再建を担う若き留学生達や、海を渡る宝塚歌劇団の少女達を乗せて走った。1960年(昭和35年)引退。

 引退後の彼女は横浜山下公園近くに係留され、高度成長の日本を、ユースホステルや催事場として生きた。その姿はどこか、かつての名優が場末の酒場で唄わされているような哀切なものがあった。幸か不幸か、日本の経済成長の終焉と共に、彼女にもやっと平和な日々が戻ってきた。今は、日本郵船が歴史博物館に併設される展示船として彼女を公開している。これを書いている今日、HPの彼女の写真には「83歳と45日」と記載されている。