「器量が大きい、小さい」といえば、人間の包容力の大小を示す言葉である。
量とは度量衡の一つ、枡を示す言葉で、容積の単位である。「器量人という場合には、度量の大にして多くの人を容れるに足る人物をいう」と、語彙辞典には書かれている。
では、具体的にはどういう人が「器量が大きい人」なのか。
包容力とは、他者を肯定する力である。が、他者は多様であるから、一人を肯定することは、もう一人を否定することにつながりかねない。しかし、ある価値観を以て甲を肯定し、乙を否定する様な人間は、「器量が小さい人」であって、器量人の真逆である。器量が大きい人(器量人)は、まず自己の価値観を持っている。が、その価値観は幾つもの顔を持つ多面的なものである。器量人は、その多面的な価値観を以て他者を量る。そして他者の肯定できる側面を見つけて、それを肯定する。
甲の肯定的側面と、乙の肯定的側面はちがってもよい。平たく言えば、他人の良いところを見る人が器量人なのである。結果として、大多数の人には、評価できる側面がどこかしらあるので、大多数の人を肯定することが出来る。(それは他人の否定的な面を見ないということではない。他者の否定的側面を認めたとしても、器量人はそれを「言わない」のである)
もうひとつ、器量の大きい小さいに関係することには、志が高いか低いかもある。
たとえば、ある会社で甲と乙が机を並べて同様の仕事をしていたとする。甲乙はビジネスXの可否を論ずる。表面上の議論は、「Xは当社にとって儲かるか否か」である。だが、甲は心の中で、「このビジネスは社会公共にとって意義があるものか」を問うている。同じ時に乙は心の中で「このビジネスXは自分の出世につながるか」を考えている。そのような場合、甲を器量人と呼び、乙を狭量の人という。目前の事象を、広い視野を持って全体の中で位置づける能力、これ即ち器量である。
一方で、器量がよい、悪いという言葉がある。この場合の、器量とは(主には女性の)容姿、容貌すなわち顔や姿が佳いか否かを現す言葉である。顔姿の美醜と、容量の大小がどう関係があるのだろう。インターネットというものは便利なもので、こういうときに、世の権威者ばかりではなく、世間の様々な野次馬達の意見も知ることが出来る。「昔は男女差別があったので、男は包容力、女は美醜で量られた。だから男の器量は大小で、女の器量は良し悪しなのだ」と主張する人がいる。この主張などは「男女差別」にとらわれすぎた牽強付会(こじつけ)の議論としか思えない。
この稿の筆者は、器量の良し悪しについて、こう思う。即ち、人間には美醜がある。だが、美醜は造作が整っているかのみで決まるわけではない。天性整った容姿を持っていても、器量が悪いという人がいる。そういう人は、つねに他者の評価が気になって仕方がないような人なのではないか。
ちょっとした知人の言葉で「自己が軽んじられている」と感じてしまう。恋人の言動で「自分が優先されていない」と感じる。そうすると「自分なんて価値のない人間だ」という思いにとらわれてしまう。そういう人は器量の悪い人である。反対に、他人から見ればそれほどでもない造作なのに、鏡を見て「自分はなんて美しいのだろう」と思える人は、容姿輝き究極器量よしになれるのだと思うのである。
器量の大小を決めるのは、他者を肯定する力。器量の良し悪しを定めるものは自己を肯定する力なのではないか。