道を歩いていても、あるいは同僚や親族でもよいのだが、「あ、この人は苛む人だな」とわかるような人がいる。苛む人は、眉をしかめてせかせかと歩く。身体から不快な気配が立ち昇っている。
漢字の「苛」の字源は「摩擦を起し、ひりひりするからい草」だそうだ。
訓読みでは、苛む、苛つく、苛めるなどということになる。
さいなむ、というのは、責め苛むとも言い、相手のちょっとした瑕疵を言挙げして、言葉や場合によっては暴力も用いて相手を執拗に攻撃することである。攻撃は烈しいばかりではなく、ねちねちと時間も長いことが特徴である。多くの場合、攻撃する相手は自分よりも弱いことが多い(後述するように、苛む人にとって相手は誰でもよいのだが、強い者だと反撃されるので、自分より弱い者を選択する)。時には、苛む人の機嫌が一度直って、忘れた頃に、また以前の理由で相手を責め苛む場合もある。妻が夫の昔の浮気を思い出して苛む場合などがこれに当たる。
苛む人は、いらいらしている。その理由は、身体の不調、自らの境遇への不満、人間関係のこじれ、家庭の不和等様々であろうけれど、不満があり、いらいらしている。その不満を解消するために、他者を苛むのである。だから、苛むとは、平たい言葉で言えば「八つ当たり」の場合が殆どである。八つ当たりの場合、自分の苛立ちをぶつける相手は手近の誰でもよい。不幸なことに、自分が苛々して他者に八つ当たりをすると、人間関係はますますこじれ、家庭はもっと不和になり、境遇は悪化し、身体は不調になる。つまり事態は悪化するのである。これを称して負のスパイラルという。
苛む人は自らの八つ当たりによってドツボに陥っていく。苛立ちは、せわしない。熟語で「苛波」とは、せかせかとした小刻みな波のことだそうだ。
苛む人は、苛める人である。いじめるは、虐めるとも書く。イジメは、弱い立場の者を虐待することである。「苛虐」とは、人を手ひどく扱う様。「苛酷」とは「ひどすぎる」だけではなく容赦なく無慈悲でむごい様をいう。「苛辣」とは、いらいらして、辛辣な様。「苛烈」とは、厳しく烈しい様。だから、苛がつく言葉は、他者に厳しく当たる様を言うのである。
イジメの本質は、他者を責めることによって自己の苛立ちを解消することにある。だから、虐められる者に本質的な理由があるわけではない。世間ではよく「いじめられっ子にもそれなりの理由がある」という人がいるが、この稿の筆者は同意できない。それはせいぜい、八つ当たりされやすい弱い立場の人、という程度のことをいうに過ぎない。
他者に厳しく、上から弱い立場の者を虐げる代表選手は権力者である。故に、「苛斂誅求」とは弱い人民から厳しく税を取り立てることなどをいう。「苛税」、「苛政」などという言葉もある。「苛察」とは細かい点に立ち入って厳しく詮索することだそうだから、これも権力由来の熟語であろう。
「苛」はからくて、ひりひりする、尖った所のある草だそうだ。棘があり、角がある。「苛高数珠」というのは芝居に出てくる荒法師などが持っている、算盤玉のように平たくごつごつした数珠玉を太い紐でくくったものだ。苛性ソーダ(水酸化ナトリウム=NaOH)や苛性カリ(水酸化カリウム=KOH)に用いる「苛性」というのは、動植物の組織などに強い腐食性があることだから、これらの物質は自然界の「いじめっ子」と言えるのかもしれない。