このところ、歴史認識だとか、科学技術だとか難しい話が続いたので、今月は庶民一般の大好きな食べもの、稲荷寿司の話を書く。
まず、1837年(天保8年)から書き始められて、約30年(ちょうど幕末まで)書きつながれた喜多川守貞という人の著書「守貞漫稿」という本のことを紹介したい。
この人は、関西生まれの商人で江戸へ出てきて東西の風俗の違いに驚き、以来、時勢、地理、家宅、人事から始まって、娼家の習慣から男女髪型、浴場、子供の遊びに至るまで風俗百般を調査し、東西を比較、精細な図と共に35巻にまとめた。残念ながら、当時著作としては出版されなかったが、明治になってから翻刻されて世に出た。現在、近世風俗を調べる人にとってはもっとも基礎的な文献の一つだという。
その「守貞漫稿」に掲載されているものが、この世の文献に稲荷寿司が登場した初めだそうだ。
それによれば、天保の末年、江戸で豆腐を油で揚げたものを裂いて袋の形にして、そのなかに木茸や干瓢を刻んだ飯を詰めて、すしと称して売り歩いたもの。油揚を狐が好む故に稲荷鮨、篠田鮨などという名を付けたと記されている。至って安い、下世話な食べ物だとも書かれている。
別の説には、お稲荷さんは五穀豊穣の神様で、お米を俵形に詰めた稲荷寿司は、お稲荷さんを象徴したもの(供え物として適切であった?)であるというのもある。この場合狐は、お稲荷さんのお使いだから、稲荷寿司が狐の好物である理由は、「狐が、油揚を好きだから」と言うよりは、稲荷寿司は五穀豊穣の象徴だからということになる。どちらでもよいような話だが、この稿の筆者はかねてから、狐という動物は本当に油揚が好きなのだろうか、という疑問を持っていて、一度試してみたいと思いつつその機会を得ないでいるので、あえて、別の説も紹介した次第である。
稲荷寿司を江戸時代に紹介した別の文献にも、「安い」「下世話」という話は大概書かれていて、新鮮な魚を握った握り寿司を高級として、油揚に飯を詰めた稲荷寿司を下世話とする風潮は、稲荷寿司ができた頃からあったらしい。「天言筆記」という本には、飯の他におからを詰めた稲荷寿司をわさび醤油で食べる話が出てくるそうだ。これなど読者の家庭で容易に試すことが可能なので一度是非、挑戦してみられることをお勧めする。
稲荷寿司の形は、俵形が基本だが、土地によっては、三角形のものもある。西日本の稲荷寿司に三角形のものが多いらしい。助六寿司というのは稲荷寿司と切った巻物が一緒に出てくるものだが、これは歌舞伎の登場人物助六の恋人が吉原の花魁揚巻で、「揚げ」と「巻物」であるという江戸っ子流の洒落である。
さて、以前神様の方のお稲荷さんのことを書いたときにもご紹介したかもしれないが、この稿の筆者の愛して止まない稲荷寿司は、東京六本木のホテルアイビス地下にあった「おつな寿司」の、油揚が裏返しになった稲荷寿司。筆者が宣伝マンであった時代に、よくタレントさんの楽屋見舞いに用いたものだ。現在ホテルアイビスは再開発工事中だが、ネットで調べた限りでは「おつな寿司」は近くに移転して営業しているらしい。
「おつな寿司」
東京都 港区 六本木 7-14-16 03-3401-9953 http://www.otsuna-sushi.com/