古代ローマ帝国が存在したのは、だいたいだが紀元前27年(アウグストゥスによる帝制開始)から、紀元476年(西ローマ帝国滅亡)まで。約500年間、そのうち栄えたのは最初の200年くらい。世界史上、そのくらいの長さの国は他にも例がないわけではないが、なんと言ってもローマ帝国が圧倒的な存在感を示すのは、今も帝国の領域各地に、存在を証明する遺跡の数々が残されているからだろう。(その点、モンゴル帝国などは、見事なほどに証跡を残すということに無頓着である)
帝国領各地に残るローマ遺跡は、劇場、浴場、神殿、橋、水道、城壁と多彩だが、みんな石で出来ていることに特徴がある。
天高く石を積み上げ造形を為す技術、土木と建築の業こそが、ローマ人が他民族にぬきんでたものであり、支配力の源泉であったのだと思う。
今日でも、たとえば、南フランスを旅していると突然視界にポン・デュ・ガールの巨大な水道橋が目に飛び込んでくる。日本がまだ国の様態を為していなかった時代に、この巨大な土木工事を成し遂げたことには驚かされるし、現地のガリアの民びとも、これを見たとたんに「ローマには敵わない」と素直に思ったことだろう。同様の水道橋の遺構は、スペインのセゴビアにも、トルコのイスタンブールにも遺っていて、共通の技術がローマから各地に伝搬したことを示している。
さて、ローマ人は優れた土木建築の技術を持っていたから、空間構成を人工的に行うことに秀でていた。ローマ帝国領内に遺る広場を見ると、壁か建築か、とにかく石で出来た背の高い何かに、広場は囲まれている。ローマ風の広場は立方体、乃至直方体の空間なのであって、天井の部分だけが、空に抜けていると考えれば良い。広場の正面には、神殿、教会、市庁舎など人々が出入りする公共建築が配されており、広場自体も正面の建物を中心とする一種の劇場空間であるように構築されている。広場は日常市場として機能する一方で、権力者と人民は身分の差があっても、一つの劇場空間を祝祭によって共有するように設計が為されている。すなわち「パンとサーカス」は、当初円形劇場から始まったのだが、やがて方形の広場がこれに代わるようになったのだと思う。
一方、我が日本では、そのような土木建築の技術を持たなかった。それ故に、幸いと言うべきか、縄一本、盛り塩少々で結界を張るというユニークな文化が発達した。すなわち、空間の境界、あるいは、極端に言えば空間を構成する点に象徴的な何かを配置するだけで、目に見えない結界が張られ、時に祝祭の空間ともなり、時に商業空間ともなったのである。
この稿の筆者は、我が国に、四日市、八日市、十日市など臨時の市場が生まれたにもかかわらず、それらが恒常性を発揮しなかった理由の一つは、市場の縄張りが、恒常的な建築ではなく、注連縄一本の臨時のものであったためではないかと思う。
我が国の人々が結界を張るとき、そこにはハレの空間が出現した。そして、注連縄がほどかれ、あるいは盛り塩が消された瞬間にその場はケの空間に戻ったのではないだろうか。