クラブという言葉は多義である。学校の部活動もクラブなら、同窓生や何かの社会団体が運営する会員制倶楽部(たとえば、東京三田倶楽部、銀行倶楽部、日本工業倶楽部など)なんていうのもクラブである。また夜の巷のお店にも社交クラブと称するものがあり、これも音声で、冒頭の「ク」にアクセントがあるものと、後半の「ラブ」にアクセントがあるものでは、微妙に業態が違うらしい。今月のお話は、それら数あるクラブの中で、いわゆる銀座の高級クラブについてである。音声で言えば、「ク」にアクセントがある方である。
この稿の筆者が広告宣伝マンとして、銀座界隈を徘徊していたのは、20代の後半から30代の前半くらいの頃で、昭和五十年代、日本経済の高度成長が極まってまもなくバブル経済に向かうというよき時代であった。当時銀座の高級クラブは全盛期。この業態はもともと料亭遊び、茶屋遊びが主体であった戦前の財界が滅びて、戦後の復興期に、洋服、椅子席で、でも接待の女性が出てくる新業態が生まれ、それをクラブと呼んだのが始まり。まあ、バーとキャバレーの中間くらいの業態と思えばよい。クラブ顧客の主流は、新興の政財界人や文化人、それと企業の接待費を使える高級サラリーマン階級であった。酒場業態としての特徴はあまりなく、綺麗な女性が接遇してくれて酒を飲むだけの話で、おいしい食事がでてくるわけでも、しゃれた踊りやショーなどが演じられるわけでもなく、中級のクラブではカラオケというものが導入される場合もあったが、大半は生の音楽と言えばピアノくらいで、まあ当時のことだからビールやワインではなく、多くの客はウィスキーの水割りなんかを、女性に作ってもらって飲んでいたものである。(後に日本経済がバブル期に向かうにつれて、シャンパンのドン・ペリニヨンを盛大に抜くのが威勢のある顧客のスタイルになっていった)
当時銀座三悪といわれる企業があって、超大手広告代理店D社、巨大商社M物産、民放の雄T放送がそれであるが、これら企業が別に悪事を為していたわけではなく、あまりにも盛大に接待費を銀座のクラブにばらまいていたために、周囲の者が妬んで「三悪」と呼び習わしたものらしい。
これら企業の本社受付には月末になると、綺麗に髪を結い上げたクラブのママ連が掛け取りに押し寄せ、ロビーは実に華やかな雰囲気につつまれたといわれている。「掛け取り」について言えば、そもそもクラブでの飲食費は、何を飲んだからいくらという明朗会計にはなっていなくて、帰りがけにその日の飲食費負担者に、店側が鉛筆でコショっと金額を書いた紙片を渡してくれるだけである。価格構成は、当該企業の持ち単価、客の人数、ボトルを入れたか、店に居た時間、付いたホステスの格式などを勘案して、ママが決める。そして後日、クラブの名前とは縁もゆかりもないナントカ商会といった堅い名前の企業(当該クラブのオーナー企業)から請求書が送られてきて、行儀のよいサラリーマンはすぐに交際費処理、出票して会社から振り込むのだが、なかには机の中にながくクラブの請求書をため込む質の悪い者も居り、さらに剛の者は、掛け取りに来たママに「これまでの分全部を払うから、まとめて半額にしろ」などと交渉したりした。「三悪」とはそういう剛の者が多い会社のことであると解説する人もいる。さて、筆者の年代はちょうど脂ののりきったホステスさんたちと同年配であったはずなのだが、彼女たちはたいがい年配のオジサマ達の相手をしており、筆者の相手などしてくれなかった。かろうじてその貫禄ホステスさんに付く、ヘルプさんという二十代そこそこのアルバイトのようなひよっこが、そっと筆者の水割りを作ってくれたのである。