武田対戦期の続きである。1579年、家康の長男信康を舅信長の命で切腹させるという大事件が起きる。通説では、信康の正妻五徳姫(織田信長の息女)による父信長への讒訴によって、信長が徳川の使者酒井忠次に信康の動向を問うたのに、酒井が一切庇わなかったのが原因とされている。が、昨今では、徳川軍団内の西三河(信康管轄、最も古くから服属している国衆)、東三河(酒井忠次の管轄、清須同盟後に服属した国衆)、遠江(家康直轄、「武士の専業化」に近い新しい形態の武士団)の内紛があり、家康自身が内紛の収拾のために信康を犠牲にせざるを得なかったという新説も出てきた。また信康と武田間の密かな連携の動かぬ証拠を織田に押さえられたのだという説もある。いずれにしても家康は驚異的な忍耐、自己抑制で長男信康を捨て、織田信長との連携を守り、その後1582年織田と共に武田勝頼を滅ぼし、対武田戦に最終勝利する。
戦国最終期の有力大名期(1582年-)。武田滅亡の功によって駿河国を得て駿、遠、三の領主となった家康は、その直後に起きた本能寺の変によって織田の軛からも解放され、同年の天正壬午の乱によって甲斐、信濃も得て、全国区の戦国大名となった。甲子園で言えば、準決勝くらいにあたる。だが戦国大名の決勝戦の相手、羽柴秀吉とは、1584年の小牧長久手の戦いで勝利は得たものの、西日本を平定し経済面で圧倒的優位に立った秀吉に徐々に圧迫され、1586年ついに屈服し、臣下の礼を取ることを余儀なくされる。
豊臣公儀期(1586年-)戦国大名の決勝戦で敗れた家康は、全国をほぼ統一した豊臣公儀政権の最有力閣僚となる。この時期の家康の最も重要なトピックスは、1590年秀吉の小田原征伐の後、戦国大名として営々と築き上げた駿、遠、三、甲、信五カ国の領邦を召し上げられ、新知として、後北条氏の領邦であった関東に移封されたことであろう。通説では、秀吉が大阪への軍事的脅威を取り除くために家康を遠ざけたと言うことになっており、確かにその側面もあったのであろうが、この稿の筆者は、一方で秀吉の日本統治政策の中で家康を以て「豊臣公儀内の東日本の仕切り人」(室町政権における関東公方の役割)とする意味もあったのではないかと推察している。移封後の家康が関東で金貨を基盤とする独自の通貨発行権を持ったこと、豊臣氏に対する潜在的な脅威であったにもかかわらず朝鮮戦役でも出兵を免れたことなどがその論拠である。秀吉の死後、1600年関ヶ原合戦の経緯(上杉攻め、関西での石田三成クーデター、東海地域までの大名を引き連れての西方への転戦、関ヶ原の戦いに勝利、術策を弄しての大阪城の占領)も「豊臣公儀政権の最有力閣僚」「東日本の仕切り人」という家康の立場を理解することによって読み解ける様に思う。
江戸幕府期(1603年-1616年)この時期、戦国トーナメントで一度は準優勝に終わった家康は、最後のいわば復活戦で優勝を遂げる。その中で、注目すべきは、征夷大将軍就任後、当時政治経済の中心地であった大阪・伏見ではなく、草深い東日本の江戸に幕府を開いたことであろう。
その理由については、政権の中枢を東進させることによって東日本の未開地開拓を促進し、長期的に見て日本の国内経済開発を図ったとする説がある。ⅰこの稿の筆者は、それだけでなく、豊臣公儀期の後半、家康は既に「東日本の仕切り人」として江戸に統治基盤を有していたのであり、その基盤を用いることによって豊臣公儀から相対的に離れた「新公儀」を設立することが容易であったからではないかとも思うのである。
ⅰ 本郷和人氏の説