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今月の言葉

2024年7月31日

自由の天地

 この稿の筆者は、第二次世界大戦直後の生まれ、いわゆる戦後民主主義の価値観の中で育った。その価値観とは、第二次世界大戦の結果自由主義が専制主義(あるいは権威主義と言い換えてもよい)に勝利し、その自由主義の下、新しい世界秩序が生まれたというものである。敗れた我が国は勝者アメリカによって、新しい価値観に基づいた憲法を「与えられた」にもかかわらず、大多数の日本国民はそれを積極的に受入れ、支持した。実際筆者は今でも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しよう」という非武装平和の理想を、困難と知りつつも涙が出るほど尊いものだと思っている。さて、自由主義の本質は何かというと、人民に対する権力の抑制である。人権宣言、三権分立、代表なければ課税なし、そして「自由、平等、博愛」。これらは、主に英国名誉革命、米国独立戦争、フランス革命という18世紀頃の欧米諸国の近代国民国家建設の中から生まれた思想であり、やがて、多かれ少なかれ後進の近代国家にも引き継がれた。尺度で言えば、「人民に対する権力の抑制」のメカニズムが機能している国が先進諸国であり、十分に機能していない国(専制主義の度合いが強い国)が後進国であるというのが、自由主義のものの見方である。しかも、20世紀に起きた二度の世界大戦において、自由主義諸国家は苛烈な犠牲を払いながらも専制主義諸国に勝利したので、20世紀の後半からは、自由主義の価値観が世界秩序の基盤となった、というのが自由主義的な理解であろう。未開の後進諸国は、近代化の過程では、一時的に専制主義の形態を取ることがあっても、経済的発展を遂げると次第に自由主義化し、先進諸国のように権力抑制の政治メカニズムを持つようになることが、予測された。
 だが、ここに一つの落とし穴がある。それは、国内では自由主義を標榜した英米仏などの近代先進国家は、同時に世界の後進諸国を植民地支配し、その植民地では多かれ少なかれ横暴な、専制主義的な支配を行っていたという事実である。先進諸国はその理由を「後進諸国は未開で即時には自由主義に耐えられない」として正当化しようとしたが、支配される側から見れば、それは自由主義の二枚舌であるとしか見えなかった。20世紀後半、これらの植民地は次々と独立を遂げ、少なくとも表面上は欧米諸国の軛を脱し、国内的には、建前上自由主義的な憲法秩序を持ったが、実際にはその「貧しさと後進性故に」かなりの程度に専制的な権力によって支配されることが多かった。
 ソビエトや中国などの共産主義諸国も、類別すればこうした発展途上の専制主義国家の一種であるとすることも出来る。忘れてはならないのは、こうした発展途上の国々では、人民がそもそも自由主義の経験を持たないことである。今日の専制主義国家の指導者、たとえばプーチンや習近平は、第二次世界大戦の結果が「自由主義の勝利」だとは思っていないだろうし、自国が経済的に発展し豊かになったとしても、人民が自然に「権力の抑制」を求めるようになるだろうとは思っていない。20世紀末、ソビエトが崩壊し、天安門事件が起きた頃には、ロシアでも中国でも人民が自然に「権力の抑制」を求めるようになったかと思えたものだが、その後の経過をみると結局の所また専制主義に回帰してしまい、21世紀前半の今日では、いわばかつての欧米諸国におけるウィーン会議体制のような反動が多くの国々に起きているように思える。それでも筆者は、ベルリンの壁の崩壊、その直前にハンガリーとオーストリアの国境を越えた東欧人民の歓喜の顔を忘れることが出来ない。
 国が豊かになれば、人民は自由の天地を求める。それは「信仰」に過ぎないのだろうか。