今月は先ずアラビアンナイトの話から始めることにしたい。西暦750年頃に成立した、イスラム教主(カリフ)国、アッバース朝は現在のイラクのバクダードを都にした。そのバグダードの王宮に、妻に裏切られて女性不信に陥った王(カリフ)がいて、ハーレム(後宮)の中から夜ごとの相手を選び、だが朝になると口封じのために一夜の相手を殺してしまうことを繰り返していた。それをやめさせるために、大臣の娘が自ら後宮に赴き、王の相手をする際に、面白い話を語って翌朝の命をつなぎ、夜ごとの物語が千夜に及んだ時ついに王は、娘を許して妻として迎えたというのが、千夜一夜物語(アラビアンナイト)の能書きである。
イスラムに限らず、それ以前の古代オリエント、アッシリアやペルシアなどでも、一夫多妻制の文化を持つ国では、王朝にハーレムと宦官がつきものであったらしい。一夫多妻制の考え方は、権力や甲斐性があって、多数の女性を養う能力のあるものだけが多くの妻を持つことが出来るというものであって、おなじ中東由来のキリスト教やユダヤ教のように、階級や社会的立場に限らず、「神と約束した一夫一妻制」をとる宗教というのはむしろ少数派であったようだ。いずれにしても、ハーレムの存在は、一夫多妻制の文化の帰結であり、権力者が「血の純粋性」を維持するために多数の女性を後宮に隔離し、他の男性に接触させないための手段であったと言える。イスラム史上最も有名なハーレムは、テレビドラマ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」で知られる15~16世紀オスマン帝国のもので、コーカサス出身の美人奴隷を買い入れ、イスタンブールのトプカピ宮殿の奥に一時は千人に及ぶ後宮を形成したと言われている。この女性達を監督したのが、黒人奴隷出身の宦官であり、黒人の宦官長はやがて表の宰相に対する裏の最高権力者となっていったという。
このような、後宮と宦官のセットは、儒教文化に基づく中国の王宮にも存在した。中国においても(儒教の始祖の孔子は春秋時代の人だが、それより前の)周の時代から、一夫多妻制と、後宮への女性隔離はあったようだから、必ずしもこれは儒教文化に基づくものだけとは言えず、広く東洋の一夫多妻制文化の帰結であると言える。いずれにしても、中国の各王朝においても、後宮と宦官はつきもので、また歴史的に見ても、後宮と宦官は権力抗争の主要な要素の一つであったと言える。
ちなみに、儒教思想の下では、後宮と宦官という「裏」のシステムを経ないで、女性が「表」の権力を握ることは強く忌避された。中国史上その禁を犯して「表」の権力を握った女性は、唐の前半期に出現した則天武后(一時ではあるけれども「周」という国号を立てて女帝となった)だけであろう。
則天武后はそれ故に自己の治政下では儒教に替えて仏教を重んじたが、その死後儒教思想が復活すると、武后の世はその斬新な治政にもかかわらず、否定的にしか評価されなかった。
さて、我が国はと言えば、すくなくとも室町時代くらいまで、京都の宮廷に明確な女性隔離の思想はなかった。一夫多妻制ではあったのだが、たとえば源氏物語などを読むと、天皇が「血の純粋性」を維持するための努力を怠っていて、他の貴族が夜ひそかに后や妃の元に通ったりしている。
江戸時代、徳川氏が国内安定のために儒教秩序を導入してから、武家文化の中では「大奥」という一種の疑似後宮が生まれたが、江戸の大奥が他の東洋の国々の後宮やハーレムと決定的に異なるのは、宦官を置かなかったことである。その代わりに大奥には、将軍の妻妾とは異なる役割の女性の「年寄」が存在し、この者がかなりの程度に政治的発言力も持つことになったのである。