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今月の言葉

2024年12月27日

学校

 学校というものの歴史は古いが、学校教育制度というものが出来て全国津々浦々に学校が配置されるようになった(これを普通教育制度と言ったりもする)のは、概ね近代国民国家の成立と期を一にしている。たとえばヨーロッパ中世の封建制の下では、学校のオーナーは君主か教会なのであって庶民も含めてどこでも誰でもが学べる場所ではなかった。英国革命、フランス革命などを経て国民国家が形成されるに及んで、全国的且つ衆庶も対象とする、学校制度が整備されるようになったのである。初等中等の学校制度の下では、国民の識字率の向上が図られると共に、四則演算や地理、歴史、自然に関する知識など基礎的な学力が等しく国民に授けられた。我が国ではこれらの学力を「読み書き算盤」と言ったりする。こうした基礎的な学力は、先ず男子にあっては国民を徴兵し、兵士として一律に軍に動員し、あるいは平時の工場労働者として勤労にあたらせるための標準的な能力であったし、女子においても、男子が兵営に動員された後に、家庭ではなく社会の隅々で男子の代わりの役割を果たすために必要なものであった。つまり学校制度下で授けられる知識能力は、なべて国民一律同型の「標準的」なものである必要があった。個々人が多様な能力をそれぞれに伸ばしたのでは、上記のシナリオは成立しなかったことを明記しておきたい。
 しかし一方で、あらゆる階層の国民に等しく基礎学力を授けるという営みには、きわめて啓蒙的な意味もあった。それまで社会的な知識を持たない故に、不当な労働に縛り付けられていた男子や、家庭において男性である父や夫に縛られてきた女性に、社会と自分との関係を見る目を開かせたのも学校が与えてくれる基礎学力であったと言える。この時代の学校を描いた様々の小説を読むと、貧しい家庭の子弟に知識を授けて自覚を促す教師の話というのが多くみられるのは、こうした学校制度の啓蒙的な意味に起因している。(山本有三「路傍の石」など)
 さらに、学校は単なる知識を授与する場であるだけではなく、人格を涵養したり(アミーチス「クオレ・愛の学校」)、あるいは国民としての愛国心を訴求(ド-ディエ「最後の授業」)したりする場でもあった。我が国においては、学校は地域コミュニティーの重要な機関の一つであって、村の諸行事には、村長とならんで小学校長、郵便局長、警察署長が列座するのが通例であった。また、校歌、制帽、部活動などをつうじて、学校は、生徒の将来における兵営や工場のモデル(祖型)としての役割も果たしていたのである。
 さて、この稿の筆者は、こうした学校の、国民一律同型の「標準的」な知識授受の機能(今日で言えば、学習指導要領に基づいた標準的な学力の養成)が、インターネットやAIの普及による「知の爆発」(学ぶべき知識の総量が爆発的に拡散する)によって無意味なものとなり、現代においては、従来の学校教育とは別の形の知へのアプローチが求められていることを述べたい。現在求められているのは、学校で知識そのものを授受するのではなく、真偽定かならぬ様々な情報に満ちあふれているインターネット社会の中で、どのように正しい知識に行き着くことが出来るか、その方法を学ぶことである。もちろん、その方法を学ぶために、ある種の知識の授受をモデルとした知へのアプローチの実習や演習というものは必要であろう。が、学ぶべきは知への接近の方法であって、個々人は会得した方法に基づいてそれぞれの知の世界を形成するのが、現代における新しい学校のあり方ではないかと思うのである。