お役立ち情報
COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
絞り込み:
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自転車は敵だ(続)
先月に続いて自転車の道路通行における罪状を挙げて、危険である所以を述べたい。
自転車の罪状その1は、「一方通行、自転車を除く」である。自動車を運転する者にとって、赤地に一の派手な一方通行(の出口)マークは、逆走禁止という安全上きわめて重大なサインであり、自動車の運転者がこれを見落とすことはまずないと言ってよい。が、その一方通行マークの下に、「自転車を除く」という漢字の標識が付属している場合があるのに気づく運転者は、必ずしも多いとは言えない。自動車の運転者が「青地に白矢印」の一方通行の道を走っていると、突然向かい側から自転車が逆走してくる。だが、一方通行をあらわす「青地に白矢印」の標識の下には「自転車を除く」という漢字の標識がついていない場合もある。では、どのように自動車はこの道を自転車が「合法に」逆走してくることを識別するのだろうか。
次に掲げる罪状その2は、「車は左、人は右」を守らない自転車の存在である。
道路交通法上、自転車は純然たる車両である。我が国では車両は道路の左側を走ると法に定められている。ところが、平然と道路の右側を通行し、あまつさえ、道の左側を法に則って走行している自動車の正面に立ちはだかり、突っ込んでくる自転車が存在する。このような不埒な自転車は、自分を歩行者と勘違いしているのではないだろうか。
自転車が、自分を歩行者の党類であると勘違いする所以は、「自転車は歩道を通行してもよい」とする天下の悪法にある。だが、この法律には、いくつも但し書きがついていて、まず前提として歩道に「普通自転車歩道通行可」の標識等があるとき、とあって、どの歩道でも通行してよいわけではない。あるいは「普通自転車の通行の安全を確保するためにやむを得ないと認められるとき」で、これは道路工事や、車道の路側に駐車スペースが設置されているとかの例外規定である。さらに、自転車が歩道を(やむを得ず)通行するときは「車道寄りの部分を徐行」すると法に定められており、守らなければ罰則も適用されるのだが、これらの例外規定や定めを守って歩道を走っている自転車は数少ないように見受けられる。
また、車道に塗ってある青ペイント、白ペイントの自転車レーン(ナビマーク・ナビライン、専用路側帯)の表示は、色の違いによって意味が異なる。青ペイント(塗りつぶし)の「普通自転車専用通行帯」の表示は道路交通法上の根拠があり、いわば自動車用の車道の左にもう一つレーンがあるということを示している。一方白ペイントのナビマークや交差点近くの青ペイントのナビライン(道路にとんがった矢印状の表示)の方は、自転車の安全な通行を促すガイドラインのようなもので、法的根拠はないのだそうだ。それは車道の路側にもう一つのレーンがあるという意味ではなく、道路の一番左のレーンは自動車、自転車共用に開かれていることは銘記する必要がある。
世の自転車には法を守って通行することを、強く訴える次第である。2026年3月31日
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自転車は敵だ
自動車と自転車の功罪を比較すると、特に環境(地球温暖化に対する影響)や健康面での効能から、断然自転車に軍配が上がることは、よくわかっている。だが、それでも自動車の運転をする者として、昨今の道路上での自転車の横暴には我慢ならない。今月は、以下に述べる諸々の罪状を掲げて、自転車が我が国の道路で如何にのさばっているかを糾弾することにしたい。
自転車の罪状その1は、なんと言っても「すり抜け運転」である。道路の左側車線を走る自動車が交差点や信号に近づき徐行を始めると、後ろから自転車や自動二輪車がかえって速度を上げて自動車の脇をすり抜けようとする。そもそも一つの車線を走る車両同士であれば、同じ車線の前の車を追い抜くときには、右向きのウィンカーを出して、右から抜くのが我が国の作法であり、同一車線の左側から前の車をかわそうとするのは、立派なマナー違反である。のみならず、自動車の運転者に余計な安全確認のストレスを与えるという意味で、危険な走行であると言わざるを得ない。
罪状その2は、走りながらスマートフォンを操作したり、SNSやメールを見たりする行為である。自動車にもカーナビという道具が付いていて、運転中にそれに注目してしまうと前後左右の安全確認がおろそかになることが知られている。が、カーナビはまだ単語や静止画像程度の意味伝達であるが、SNSやメールは複雑な構文を持った意味の伝達手段であり、それだけカーナビより注目時間が長くなり、より危険度が増す。実際に、歩道を走る自転車(自転車が例外的に歩道を走ること自体はかろうじて合法である)が、スマートフォンを見入っていて、歩行者に衝突して人を殺してしまった例も少ない数ではない。
罪状その3は、かなりの速度で突如横断歩道に進入し、走り抜けようとする行為である。特に左折する自動車の運転者は、横断歩道を渡ろうとする前後の歩行者に注意しながら、歩行者が横断歩道から立ち去ったことを確認して、左折を遂げようとするのであるが、その時突如左後方から、時速20km以上で自転車が飛び込んでくることがある。まだしも左折車の前方から来るのであれば目に入りやすいが、横断歩道の左後方は、左折車のミラーの死角になっていて運転者の目にも入りにくい。自転車の高速での横断歩道進入は、あきらかに危険運転行為である。
罪状その4は、道路上で自転車が自転車を追い抜こうとするときに後方確認しない、あるいは後方確認できないことである。自転車と自動車は速度が違うので、自動車は当然、あるいは自然に後方から自転車の右側を追い抜くことになる。その時突然縦に並んで走っている自転車の二台目が何の予告もなしに道の右側に飛び出して一台目の自転車を抜こうとする。この稿の筆者が小学校で学んだことには、そういう時に後方側の自転車は腕で道路の右側に出る合図をすることになっているのだが、残念ながら最近そのような合図をする自転車を見たことはない。
これら罪状をもって、この稿の筆者は、「自転車は自動車の敵である」と判定するものである。2026年2月27日
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長編歌謡浪曲
一人で自動車を運転していると、ふと眠気が兆す時がある。そういうときには、車を路肩に止めて、ひと休みするのが作法であるのだが、そのひと休みが終わって、さて再度出発というときに、眠気覚ましの音楽というのを掛けることにしている。そういう時には、わが青春の・・なんていう楽曲は思わず気持ちよくなってしまい、その世界に引き込まれてしまいそうで眠気覚ましにはならない。かといってヘビーメタリックのロックなんぞはうるさいだけだし、帝国陸海軍のラッパや軍歌は、眠気は冷めるだろうが、なにか右翼の街宣車みたいでぞっとしない。そこでこの稿の筆者が、いつもそういう時にかけるのは、三波春夫の長編歌謡浪曲集である。
三波春夫は1923年(大正12年)新潟の生まれ。三波春夫と言えば、「東京五輪音頭」(あゝあの日ローマで・・)や「万国博覧会音頭」(世界の国からこんにちは)が有名だが、彼の本来の持ち味は、浪曲師南條文若時代のキャリアを生かした、「浪曲のような歌謡曲」すなわち長編歌謡浪曲にある。とくに赤穂義士銘々伝にあたる「俵星玄蕃」や「赤垣源蔵」、そのほか「南部坂雪の別れ」「ああ松の廊下」など忠臣蔵ものは作品数も多く、まさに彼の真骨頂といってよいだろう。
この稿の筆者の幼時、物心つかない頃、むずかって泣いていても、浪曲の好きなお手伝いさんがラジオで浪花節をかけていると、いつの間にかおとなしくなってラジオに聴き入っていたというから、もしかすると浪曲の節回しが筆者の体質に合っていたのかもしれない。が、物心ついてからの家庭は洋楽一辺倒、日本の歌謡曲すら親はまったく好いていなかったから、三波春夫作品に近づく機会はあまりなかった。それが、大学に進学して入った放送のクラブの後輩に、三波春夫氏の令息がいて、ひょんなことから彼の作る歴史ラジオドラマ作品に筆者の出演(たしか大谷刑部少輔か何かの役だったと思う)を依頼されたりした経緯もあって、三波春夫歌舞伎座公演に出演する令息のほうの楽屋見舞いに出かけたりしてご縁ができた。我が家の祖父のところには、そのころ毎月松竹から歌舞伎座の切符が届き、歌舞伎公演の時はだいたい祖母や親せきが(たまには筆者もお供して)その切符を使うのだが、8月の三波春夫公演の時は、三波春夫の超大ファンである祖母の家の年老いたお手伝いさんがぜひ行きたいと言うので、楽屋見舞いを兼ねる筆者と二人で出かけたものだ。筆者は、令息の楽屋を見舞い、さっさと公演の席に戻ろうとしたら、スタッフの人に引き留められ、主演の三波春夫氏が廊下を通るから、というので待っていると、令息の先輩ということでとても丁寧に挨拶をされて、若造としては恐縮してしまい、また同伴のお手伝いさんにはえらく面目を施したものだ。三波春夫の長編歌謡浪曲を聞いていて、演出面で特徴があると思ったことが二つある。一つは、主人公があまり有名な人でない場合、必ず歴史上の有名人物の名前(たとえば大石内蔵助)をさりげなく挿入して聴衆の興味を引くことと、「雪を蹴立ててサク、サク」とか、「連銭葦毛にうち跨りパパパパパ」とか擬音がうまく挿入されていることである。いずれも、浪曲の演出の系譜をひいたものなのだろうと思っている。2026年1月30日
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不倫
2024年10月の総選挙において躍進を遂げた某野党の党首T氏が不倫をしていたことが発覚。某野党を支持する労働団体の代表からは「けじめをつけるべきだ」と苦言を呈されたという報道もある。不倫がスクープされた当初は、「党首辞任」「議員辞職」などを取り沙汰する声もあったが、さすがにそれは少数意見だったようで、この稿を執筆している現在、T氏の「けじめ」は党の倫理委員会だかに委ねられているところらしい。
この稿の筆者は、T氏の支持者ではないが、政治家がいくら公人だからと言って、不倫という最も私的な行いと、公職の進退ということを一緒に論ずる風潮には、違和感を持たざるを得ない。「公私のけじめ」をつけるべきなのは、世論の方ではないかと思うのだ。そこで本稿今月号では、少しだけ「不倫」ということを論じてみたい。
まず定義として「不倫」とは、人間の男女のカップルいずれか、あるいは双方が、家庭があるにもかかわらず、別の相手と肉体関係を持つことを言う。あえて人間と書いたのは、熊や猿の雄は同時に複数の雌と関係を持つことが知られているからである。「不倫」とは文字通り「不道徳」の意味だが、人類社会においても一夫一婦制の道徳を持たない社会は(たとえばイスラム社会のごとく)かなりの比率であるので、上記の行為を「不倫」というのは、人類社会の中でも(多数か少数かは知らないが)ある部分であると言える。ただし、戦後日本社会の価値観では概ね上記の行為は「不倫」とされる。その理由は、主に「家庭があるにもかかわらず」という点にある。配偶者や扶養する子などがいなければ、男女ともに恋愛は自由であるし、恋愛というマーケットの中では、「前のパートナーと切れなければ、次の相手と肉体関係を持ってはいけない」と言うほど厳しい価値観が確立しているわけではない。上記の行為が「不倫」とされる理由は、配偶者を持つ者は、第三者と肉体関係を持たないという法的な「契約」が存在するからである。この契約に違反した者は、行為がばれれば配偶者に「契約違反」を詫びなければならないし、配偶者の意向によっては、契約解除=離婚、あるいは慰謝料を請求されても文句は言えない。筆者が「扶養する子」のことを付記した理由は、「不倫という契約違反」の結果、家庭が精神的あるいは物理的に破壊されれば、子供が影響を受けるからである。逆に「第三者と肉体関係を持たない」という契約が存在する理由のかなりの部分は、家庭の安定を維持するためということもできる。「不倫」は法律上民事の対象ではあっても、刑事罰の対象ではない。T氏が社会的指弾を浴びるのは、民事上の契約違反を犯したからであって、「公人のくせに他人に金を借りたのに返していない」というに近い。
最後に、フランスの某大統領は長年配偶者ではない愛人を持っていて、それは周囲に公知のことであったが、マスコミは大統領の在任中一度もそれを報じなかったという。一夫一婦制の社会でもその程度の寛容さ、あるいは「ゆとり」は欲しいものだと、この稿の筆者は思う。2025年12月26日
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言語を学ぶ
久しぶりに会った高校・中学の後輩が言う。「私は実はあなたのことを尊敬していたんですよ。」「あなたのクラス担任だったT先生から聞いた話ですが・・」「君たちの先輩には、凄い男がいる。英語の教科書なんて、一ページに単語二、三語わかれば、大体何が書いてあるかはわかるそうだ。」
ふむ、たしかに中学生の頃、そんなことを豪語していたような気もする。そしてそれはまんざら嘘ではない。たとえば筆者は、さほど英語に堪能な訳ではないが、英字新聞を斜め読みすれば、大体何が書いてあるかはわかるのである。何故かというと、ウクライナ情勢であれ、パレスチナ情勢であれ、どこかの国の選挙戦の情勢であれ、普段ニュースなどを見ていればおよその知識はすでに先に持っている。そこで英字新聞を読んで、昨日の出来事を示唆する二、三の単語が目に飛び込んでくれば、想像力を働かせて、昨日こんなことが起きたに違いないという、「凡その当たりをつける」ことができるのである。この「凡その当たりをつける」暗号解読みたいな言語習得法は、自分の全く知らない言語、たとえばイタリア語であっても、スペイン語であっても原理的には適用可能である。
ちなみに筆者は、自分の学んだことのない言語を使う国に降りたって、十日もすれば、なんとか独りで飲食店に入って、料理を注文することができる。ただしこれにはリスクもあって、昔ドイツ語を知らないのに、ドイツの鉄道に乗って一人旅をしていたときに、とある駅で自信満々で「ビールとミートパイ」を注文したつもりだったところ、相手が変な顔をするので、「どうしたのだろう」と不安に思っていたら「ビールと木苺のパイ」が出てきてしまったということがある。これなどは「木苺」という単語を知らないのに、勝手に自分の想像で「このパイはミートパイにちがいない」と思い込んでしまったために起きた事故である。
筆者が何故、どのように、かかる邪道に近い言語の学び方を覚えたかというと、それは筆者が、小学校1年生のときに、まったく英語を知らないのに、突然アメリカの公立小学校に入れられてしまったからである。小学校低学年というのは、言語を学ぶには微妙な年頃である。それよりもちいさい小児であれば、そもそも自分がどのように言語を習得したかの自覚がない内に言語は自然に身につくのである。一方小学校高学年から上であれば、母語以外の言語は、概ね学校で先生について学ぶもので、単語以外に言語を構成する方法(文法)や語尾の変化なども同時に学ぶ。外国の学校に入って、もし語学力が乏しいと判定されると、一年とか二年学級を落とされるか、自分の母語以外の言語を学ぶために特別クラスに入れられたりする。だが、小学校低学年では、「文法もへったくれもなく、いきなりその言語を使う」のが教育である。筆者は天才でも何でもないが、アメリカの学校に入ったその日のうちに、隣の少年が「今日家に遊びに来いよ」と招いているくらいはわかったし、二、三ヶ月後にはあまり不自由なく、他の子供たちと遊びの時に会話することができるようになった。
授業の内容は、だいたい日本の小学校より幼稚であったから、それこそ「想像力を働かせる」方式で乗り切った。付け加えれば、発信の際に知らない単語を知っている単語に置き換える方法もある。これは「虎」という単語を知らないときは「黄色い、黒い縞の、強そうな、大きい猫みたいな動物」とか言うものである。筆者は、小学校で学んだ英語を帰国後一度完全に忘れた。が、邪道の方は忘れなかった。高校の上級生になるまでは、この邪道を用いて、英文法を知らずに(SubjectのSが主語を表す略語であることも知らなかった)なんとか英語の授業をやりすごすことができた。2025年11月28日
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東京六大学野球(続)
先月では、東京六大学野球とこの稿の筆者との出会い、そして比較的ローカル試合である慶應-法政戦の風景などを書いたので、今月は東京六大学野球の中でももっとも華やかで、お祭りの要素の強い慶早戦(筆者は慶應義塾出身なのであえて早慶戦とは言わない)の風景について述べることにしよう。
慶早戦は、必ず東京六大学野球の最終節に、(一日中に第一試合と第二試合が行われるのではなく)、かならず慶応対早稲田一試合だけの日程で行われる。そのほかにも、慶早戦特有の決め事があって、通常は先攻の大学が三塁側、翌日は先攻が入れ替わって、ベンチも一塁側と三塁側を入れ替えるのだが、慶早戦に限っては先攻、後攻に限らず慶応が三塁側、早稲田が一塁側と決まっている。これには歴史的な経緯があって、1933年10月22日当時三塁側応援席にいた早稲田側から食いかけのリンゴを投げられた慶應水原三塁手が、そのリンゴを早稲田側に投げ返したことから一大乱闘事件が起きたことにちなんで、両校手打ちの際に、爾後応援席は慶應三塁側、早稲田一塁側と取り決めたのだとのこと。(これを「水原リンゴ事件」という)
さて、最近はどうか知らないが、この稿の筆者の学生時代には、慶早戦と言えば学生応援席に入場して応援歌を歌いたい学生たちが徹夜で並んで待っていたりしたものだ。そしていよいよ球場に入ると13時頃の試合開始までずいぶん長い時間を待つことになる。はじめの間は応援歌の練習や、マーチングバンドが応援歌ではないしゃれたポピュラーミュージックを演奏したりして時間を過ごすのだが、正午になるといよいよ慶早戦特有の儀式が始まる。まず内外野の両校応援団が全員起立して、「早慶讃歌花の早慶戦」を合唱する。その後先攻校のファンファーレが鳴ると応援席最上段に巨大な塾旗、または校旗が揚がる。そして慶應であれば「慶応讃歌」早稲田であれば「早稲田の栄光」の荘重な演奏とともに、旗は静々と応援席最前列まで行進するのである。途中「本日の旗手を務めますのは、○○高等学校出身○学部○年○○○○でございます」などの紹介があり、歓声とともに色とりどりのテープが旗に向かって飛ぶ。その後やっと塾歌、校歌の斉唱と両校エールの交換(なにせ慶應の塾歌なんぞは三番まで歌うと十五分はかかる)があって、ようやく野球試合開始となるのである。試合中も「若き血」や「紺碧の空」ばかりではなく、各回の攻撃開始時に歌う応援歌が大体決まっていた。特に7回には、また全員起立しての合唱とエールの交換がある。(六大学野球でこの7回のエールのときに校歌を歌わないのは、そもそも校歌がない東大の「ただ一つ」、塾歌が長すぎる慶應の「若き血」だけである)さて、試合が終わるとほぼ試合開始時の要領の通りまたエールの交換があり、さらに両校とも慶早戦に勝ったときに歌う特別の歌(慶應は「丘の上」、早稲田は「光る青雲」の四番?)を歌ったりする。
すっかり野球の話ではなく、応援の話になってしまったが、これが伝統ある慶早戦のかわらぬ様式である。2025年10月31日
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東京六大学野球
9月になると、神宮球場は東京六大学野球秋季リーグ戦の真っ盛り。もっとも昨今では、野球人気はもっぱら米国大リーグ(MLB)の日本人選手の活躍に移ってしまい、その次が日本のプロ野球と甲子園の高校野球。六大学野球と都市対抗の社会人野球なんぞはすっかり地味な存在になってしまった。が、選手の技量はプロ野球の予備軍と言ってもよいし、以下に述べる独特の応援様式などを見ると、やはり東京六大学野球にはよき伝統の美しさもあると思うので、今日はそのことを中心に述べたい。
東京六大学野球連盟が結成され、リーグ戦が慶應、早稲田、明治、法政、立教、東京帝国の六校で行われるようになったのは大正14年(1925年)。翌大正15年(1926年)には、六大学野球を開催する「ために」明治神宮野球場が完成した、と、連盟の発行しているガイドブックにはある。当時はまだプロ野球もなく、六大学野球は大相撲に次ぐ国民の人気スポーツであり、まだ普及したばかりのラジオによる実況中継とも相まって、今日では考えられない程の大衆の注目を集める存在であった。
さて、この稿の筆者が初めて六大学野球に触れたのは、今から約半世紀前。1971年慶應義塾に入学した直後の春季リーグ戦、法政大学対慶應義塾大学の試合であった。日吉にキャンパスから当日の午後の試合を先輩に連れられて見に行った記憶があるから、たぶん5月の月曜日の試合(土、日が一勝一敗になると月曜日に勝ち点をめぐって第三試合が行われる)であったろうと思う。 法政横山晴久投手に対するに慶應義塾の四番打者は松下勝美の対決。連盟の公表している記録を調べてみるとこの春季リーグ戦は、法政が優勝した(その後の71年秋季から三季連続で慶應が優勝)とあるから、多分この試合も法政が勝ったのであろう。ともあれ、初夏のさわやかな風が吹く神宮球場、試合が終了したのは暮れなずむ頃、一塁側慶應義塾の応援席から、三塁側法政の応援席を眺めれば、傾く夕日を受けて輝く紺オレンジ紺三色縦縞の法政大学の大きな校旗がさっと上がるとともに、校歌の演奏が始まる。筆者は当時慶應、早稲田、明治の校歌くらいしか知らなかったが、初めて聴く法政の校歌は荘重でいかにも校風をよくあらわしており、三塁側内野学生応援席をほぼ埋めた学生たちの合唱が夕べの球場に響くのであった。ついで法政から慶應に向けたエールの後、今度はわれら慶應の塾旗が上がり、長い歌詞の塾歌の一番が合唱され、「フレー、フレー法政」のエール。そして、校旗と塾旗がお互いに礼をするように一度相手に向けて静かに倒されて、また上がる。これら儀式の間およそ15分。なにより、慶應の塾生となったことを実感する瞬間であった。筆者は、その伝統の様式美にうたれ、その後「神宮通い」をするようになったのである。慶早戦に至っては、実に在学中六年間全試合(たぶん30試合くらい)を完全にフォローしている。
2025年9月30日
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公開鍵暗号
先月は、暗号の共通鍵をどうしたら安全に更新できるかという課題を書いた。
AさんとBさんが定期的にリアルの世界で面会する機会があるならば、その都度封筒に入れて紙に印刷された共通鍵の数列を渡せばすむのだろうが、暗号文を交換する者同士が距離の離れたところに存在する場合、インターネットや無線通信などでも安全に共通鍵の更新を行えるようにしなければならない。そこで発明されたのが公開鍵暗号という別のジャンルに属する暗号方式である。公開鍵暗号とは、ひと言で言えば、「暗号文を封筒に入れて中身を推定できないようにして、インターネットや無線通信で離れたところに送る」暗号方式である。
たとえば、新しい共通鍵をBさんと共有したいAさんがいたとする。Aさんはまず自分が持っている新しい共通鍵をさらに公開鍵暗号(たとえばRSAとかECCとかいう)という特殊なアルゴリズム(数式)に乗じて、別の数列に変換する。その別の数列はインターネットや無線通信上で第三者にみられても、元の数列(共通鍵)に復号できない特殊な数列である。ところがBさんがこの特殊な数列を受け取るとなぜか自分だけは(まるで封筒を開くように)復号することができて、元の共通鍵を取り出すことができるのである。もちろん公開鍵暗号はただの封筒ではない。Aさんが共通鍵を公開鍵暗号に変換するときには自分のパスワードを入力する。Bさんが公開鍵暗号を復号するときには自分のパスワードを入力する。だが優れものなのは、AさんのパスワードをBさんは知らない。BさんのパスワードをAさんは知らない。つまり公開鍵暗号方式とは「封筒の開け方は自分しか知らない」のにAさんとBさんとの間で暗号通信のやりとりができる方式だということなのである。
世間で公開鍵暗号がどのように使われているかというと、多くの場合は共通鍵の更新と共有のために使われている。が、用途はそればかりではなく、公開鍵暗号そのものを用いて暗号文のやりとりをすることもできる。但し、公開鍵暗号は共通鍵を用いた暗号よりも複雑なアルゴリズムを用いるので、計算量も多く、コンピュータにかかる負荷が大きい。このことがIoTの世界で組込機器を使用する場合には、大きな問題となる。先に述べた基本は共通鍵暗号を用いながら、共通鍵の更新に公開鍵暗号を用いるという、共通鍵と公開鍵の併用方式が多く用いられているのは、じつはこのIoTと組込機器の分野なのである。
本稿の最後に、共通鍵、公開鍵の暗号方式として具体的にはどのようなものがあるかについて、少しだけ紹介しよう。共通鍵暗号では、DES(Data Encryption Standard)が1976年11月に米国政府規格として標準化され、改良されながら長く使われてきた。しかし、さすがに長い時間を経て学会などでこの暗号を破る実績が多く出てきたので、米国政府は新たな公募を行い、2001年からAES(Advanced Encryption Standard)が規格化され、実市場においても次第にDESと交代するようになっている。現在では、AESの共通鍵256ビットを用いた方式であれば当分の間はほぼ安全に運用できるとされている。公開鍵暗号では、民間のRSA社が開発したRSA方式と、米国政府が規格化したECC(楕円曲線暗号)方式が実市場で併用されている。2025年8月29日
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共通鍵暗号
これから二回にわたって、この稿の筆者の専門分野である暗号の話を書きたい。
世の中には、暗号は大きく分けて二種類、共通鍵暗号というのと公開鍵暗号というのがあって、前者は簡単でシンプル、後者は複雑。どちらが安全かと言えば後者の方、ということが比較的知られている。が、それらがどう違うかと言うことは一般にはあまり理解されていない。そこで今月と来月は、両者の違いについて、すこし解説したい。
まず、今日の社会では、暗号化される前の通信文はほとんどコンピュータとかワープロなどの機械で書かれており、平文をソフトウェアで数列に転換したものが元のデータであるという前提から出発したい。(もちろん手書きの平文や画で描かれた通信文というのもないことはないが、これらも今日では、一度pdfなどの機械ソフトでスキャンして数列データに置き換えられて交信されている)さて平文を数列に置き換えたものを素データと呼ぶことにしよう。素データに一定の別の数列(暗号鍵と呼ぶ)を一定の暗号式(アルゴリズム)で乗じたものが暗号文である。この場合、AさんとBさんの間で暗号文が交換されるとすると、AさんとBさんの間では三つのことが了解されていなければならない。
一つ目は、素データを人間が読める平文に還元するためのソフトウェア(ワードとかテキストとか)がなんであるかという了解。二つ目は、上記の一定の暗号式
(アルゴリズム)がなんであるか(暗号アルゴリズムの名前。AESとかDESとか・・)という了解。そして三つ目は、その暗号文を復号するための暗号鍵がなんであるかという了解。
AさんとBさんの間でこの三つの了解があって初めて、Aさんは平文を暗号化してBさんに送り、Bさんは受け取った暗号文を平文に還元して読むことができるのである。
さて、上記の了解のうち一つ目は世間で一般に使われているソフトウェアであることが多いし、二つ目も、世間で認められている安全な暗号アルゴリズムの種類がそう多くあるわけではないので、実質的に外部の人に知られていない秘密の情報というのは、三つ目の暗号鍵ということになる。このAさんとBさんが共通で持っている秘密の暗号鍵のことを「共通鍵」と呼んでいる。暗号鍵の数列は長ければ長いほど外部から推定しにくい(共通鍵を知らないCさんが、AさんとBさんの間で交換されている暗号文の中身を知ろうとすれば、力業でコンピュータに数列をつくらせて次々と試してみなければならない)。が、あまり長いと実用的ではないので、現在では、128ビットとか256ビットくらいのランダムな数の列が共通鍵として用いられている。
もっとも、AさんとBさんの間であまり長い間、同じ暗号の共通鍵を使っていると、不慮のことから外部に共通鍵を知られてしまう危険が増すことになる。上記のCさんが偶然力業で共通鍵を推定してしまうかもしれないし、AさんとBさんのどちらかのコンピュータが悪意ある他者に(ハッキングされて)見られてしまうかもしれない。なので、AさんとBさんの間では、時々共通鍵をちがうものに改める(更新する)ほうがより安全なのである。
それでは、AさんとBさんの間でどうすれば共通鍵を更新することができるのだろうか。
次号では、離れていても共通鍵を更新する別の暗号方式を紹介しよう。2025年7月31日
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アスパラガス
私事であるが、その昔この稿の筆者の自宅の庭に、ポショポショした平たい、見た目クリスマスツリーのような格好をした草が生えていた。母親が、「これはアスパラガスなの」というのだが、食卓に上る幹の太い緑色の野菜とこの草とがどうにもつながらなかった。それでも戦後まだ間もないころで、アスパラガスは高価ななかなか家庭で食べるのが難しい野菜だったから、筆者はこの草がいつかあのアスパラガスに成長するのではないかと期待していたのだが、残念ながら草はいつの間にか芝生の間にまぎれてしまい、庭のアスパラガスを家庭で食する夢はかなわなかった。この稿の筆者がはじめて親許を離れて、自炊体制に入った日につくった料理というのが、アスパラガスとベーコンの炒め物、スクランブルエッグとトースト、コーヒーというもので、心のどこかでアスパラガスへの執着が残っていたのかもしれない。
アスパラガスは学名Asparagus officinalis、和名はオランダキジカクシ(和蘭雉隠)。原産地はヨーロッパの地中海沿岸のどこか。ローマ時代の紀元前2000年ごろには栽培されていた記録があるとのこと。その後ヨーロッパ各地で栽培が広がった。北米には1620年の移民とともにもたらされ、東部地区やカリフォルニアで栽培されるようになり、一大産地となった。i 日本には江戸時代中頃にオランダ船によってもたらされたが、当初は観賞用で、食用として利用、栽培されるようになったのは、明治期、北海道開拓使が導入してからのこととされる。
さて、ご承知のようにアスパラガスには、緑色のものと白いのと二種類がある。同じアスパラガスなのだが、前者は自然に太陽の光を浴びて育ったもの。後者はわざと生育中に土をかけて直射日光が当たらないようにしたものである。現在でもそうかもしれないが、ホワイトアスパラガスを水煮して缶詰にしたものは、自然に生育して野菜として店頭に並べられているものに比較して、かなり高価なもので、子供のころはなんとなくカニ缶などと並んで贅沢品という印象が強かった。
欧州とくにドイツ、オーストリア辺りではこのホワイトアスパラガスをSpargel(シュパーゲル)と呼び、日本の筍同様春の味覚として珍重する。この稿の筆者は5月連休にウィーンに滞在したことがあるが、郊外のホイリゲ(新酒という意味だが、それを供する居酒屋もホイリゲと呼ばれる)の野外のテーブルでさわやかな春の風に吹かれながら、ホワイトアスパラガスのサラダにオランデーズソース(卵の黄味とバターでつくったマヨネーズのようなソース)をかけたものを肴に、冷えた白ワインを飲んだのは、筆者生涯の思い出の一つである。
一方、緑のアスパラガスについては、ベーコンやソーセージなどの豚肉類と相性が良い。
同じウィーンには、ウインナー・シュニッツェルという紙のように薄いカツレツ料理があり、これなどもアスパラガスを添えていただくと、なかなか乙にいただける。(このカツレツには、濃い味のソースはかけずに、塩とレモンだけをかけていただくのがよろしい)
緑アスパラガスは、茹でる、炒めるももちろん良いが、この稿の筆者は、油を一切使わずにトースターか炭火で少し炙った緑アスパラガスに、削り節と醤油をパラパラとかけていただくのがおいしいと思っている。生ビールのつまみとしても最適なので、読者の方にもぜひお試しいただきたい。
アスパラガスの産地は、北海道、長野、福島などが知られている。国内では北海道が第1位の収穫量で、全国の16%を占めている。本稿が出る頃には道産品が最盛期を迎える。
i Wikipedia
2025年6月30日
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OSO18
人間どもが、俺にOSO18という記号みたいな名前をつけて呼ぶようになったのは、2019年7月のこと。人間界ではこういう名付け方をコードネームとか言うらしいが、せめて「於曽重八」とかそれらしい名前にして欲しかったものだ。命名の由来は、俺が人間界で個体の熊として認識されるようになった場所が、北海道の標茶町オソツベツという所だったことと、俺の足跡が雑な測り方で18cmあったことによる。
さて、その年の7月16日、俺にしては不覚なことに、一頭の乳牛を牧場の近くの沢に引きずって行き、腹を割きかけたところを、牧場主の息子に見られてしまった。まさに「藪から棒」の出会いで、俺の方もかなり慌てていたのだが、見られてしまったものは仕方がない。そこでカモフラージュというわけでもないが、その夏8月にかけて、28頭の牛を襲った。なかには、襲うだけで食べずに怪我を与えて赦してしまうこともあった。ほんとうは牛を食べたいわけではなく、俺にしてみれば人間界に対するゲリラ戦というか、人間界に「神出鬼没の熊」というイメージを与えて威嚇したかったのだ。
その俺の試みは半ば成功し、半ば失敗した。たしかに俺は「神出鬼没の熊」というイメージをつくることに成功し、OSO18は人間界から畏怖を持って見られるようになった。が、一方で人間界に俺様専門の討伐隊が編成され、各所の牧場近くに俺を捕獲するための罠が仕掛けられるようにもなり、いわば俺と人間界との関係は、「全面戦争」にエスカレートしてしまったのだ。俺の18cm前後の足跡と、俺が鉄条網などに残してきた体毛をDNA鑑定することを通じて、人間どもは俺の攻撃実績と他の熊の移動とを的確に区別し、俺の跡を追跡するようになった。他の熊の場合、よほど腹が空いたりしなければ人間界の牧場を襲うことはしないし、野生動物であれ、家畜であれ動物蛋白はそもそも熊の主食ではない。山に笹の実やドングリが豊富にあれば、わざわざ危険を冒して人間界に下りてくることはない。
だが俺の場合はちょっと違う。後に俺の死後のことになるが、人間どもが俺の遺伝子分析を行って調べたところ、俺は若い頃からこの方、動物蛋白ばかりを食べてきたことが分かってしまった。俺はいわば熊界のマイノリティ。偏食者、いや偏食熊であったのだ。俺がなぜそうなったか、は、自分にも、人間にもよくわからない。が、若い頃に偶然食べた鹿か何かの野生動物の肉に「味をしめて」動物偏食の道に入ったということなのだろう。ほかにも俺と一般のヒグマとは行動の様式が違っている。ほかのヒグマは、一度仕留めた獲物を土の中に隠して取りに戻ってくるのに対し、俺は、そうした行動を見せず、獲物に執着しなかった。そのために、人間界では俺のことを「食べるためではなく、快楽のために動物を襲う変質者」なのではないかという噂すら出たほどだ。が、実際の所は、俺が人間に対して、異様なほど研ぎすまされた鋭敏な感覚をもっていて、襲撃の途中でも、すこしでも何か人間の気配を感じると、あっさりと襲撃をあきらめて撤退していたのだということ他ならない。
俺の襲撃実績は、標茶町とその南の厚岸町にまたがり、2019年から2022年で31件、牛65頭にのぼった。が、2023年7月30日、釧路町オタクパウシで老いて食欲をなくし、胃の中も空っぽで牧草地にただ腰を下ろしていた俺は、まったく無抵抗で、討伐隊ではなく近くの牧場のハンターに撃たれて死んだ。しばらくは俺がOSO18であったということすら分からなかった。なので、俺の死骸は、人間の解体業者に渡され、肉の一部はジビエとして都会で食べられてしまった。
2025年5月30日
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アメリカの大義(続)
アメリカ合衆国は子供たちに、どのように民主主義を刷り込んでいるかという話である。
この稿の筆者が生まれた日に、合衆国では大統領選挙があり、共和党のドワイト・アイゼンハワーが民主党のアドレイ・スチーブンソンを破り、大統領に当選した。アイゼンハワーはそれから2期8年務めた。次に共和党リチャード・ニクソン副大統領対民主党のジョン・F・ケネディマサチューセツ州選出上院議員が戦った1960年の大統領選挙の際、筆者は合衆国インディアナ州の公立小学校の2年生であった。
アメリカの公立小学校の教室では、児童たちによる大統領選挙の模擬投票がある。担任の先生が、共和・民主の正副大統領選挙候補者の応援演説をする児童を教室の中から募って本格的な討論をさせるのだが、当時この学校の家庭では共和党支持が多く、ニクソンとヘンリー・ロッジJR.共和党副大統領候補の応援者は容易に決まった。民主党もテキサス出身の児童がリンドン・ジョンソン副大統領候補の応援に立つことになり、だれも手を挙げなかったのはケネディひとり。すると担任はなぜか日本から来た筆者にケネディの応援演説を指名したのである。数日の余裕を与えられて筆者は、同じ大学構内の住宅に住む日本人の博士課程のお兄さんの所に、応援演説の知恵を借りに行った。その内容は「ニクソンは次に金門・馬祖両島が攻撃を受けたら、米国は直ちに国共内戦に軍事介入すると言っているが、ケネディはより慎重だ。自分の国日本は台湾の隣にあり、第三次世界大戦につながる衝突は避けてほしいのでケネディを応援したい」といったものだったように記憶している。現代の台湾情勢を思うにつけても、忘れがたい思い出である。
ちなみに教室の模擬選挙では共和党が圧勝したが、大人たちの大統領選挙では民主党の辛勝だったのは周知のとおりである。さて、上記の経験を通じて筆者が言いたいのは、日本の教室では公職選挙の模擬投票を実名で、しかも各党の主張を生で戦わせることなどまずない。それは日本の教員も教育委員会も、大人たちの政治に忖度してしまうからなのだろうが、民主主義の本場の国では、そんな忖度などしないということなのだ。
さて、話は少し変わるが、この1960年は南北戦争開戦百年にあたり、教室や家庭ではその話で盛り上がった記憶もある。こちらのほうもインディアナ州が北軍側であったこともあり、学校は南部への忖度なしで「北軍が正しい」と教えていたような気がする。実際には教室には黒人の児童一人と東洋人の筆者が一人いるだけであとはみな白人の児童ばかり。しかも黒人の児童は子供たちの間ではいじめにあったりはしなかったが、保護者たちの間ではやや差別的扱いを受けていた(たとえば彼の誕生会の送迎にあたり、親の迎えの車は黒人居住区の中には入らない)記憶もある。だが、教室内ではともかく「リンカーンは黒人奴隷を解放した偉い大統領」ということになっていた。筆者はといえば、当時南北戦争への認識は「戦争ごっこ」の域を出ず、家庭内のトレイや北軍の兵隊人形、砲車の玩具などを動員して、ミシシッピ川に浮かんだ北軍側のモニター砲艦を模擬して遊んでいた記憶があるくらいである。しかし、「ゲティスバーグの演説」というのはなんとなく耳に残っていて、帰国後いずれかの頃に「人民の人民による人民のための政治」というのが民主主義の本質であると教えられ「そうかあれがそうだったのか」と、気が付いた次第である。
2025年4月30日
