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COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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アメリカの大義
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います
この稿の筆者が、客船氷川丸に乗ってアメリカ合衆国に渡ったのは、1959年の夏。小学校1年生の2学期が始まる頃であった。父はフルブライト奨学金のシニアスカラー(学生ではなく、日本人の若手の学者を米国に招聘する)で中西部の大学に赴任。私たち家族は父の後についての渡米で、大学の家族寮暮らし。筆者はと言えば、英語など一言も知らずに地元の公立の小学校に入学することになって、毎朝唱えさせられたのが、上記「合衆国旗への忠誠の誓い」であった。
日本の公立学校とは違い、各教室の黒板の横には必ず星条旗が立っていて、子供達は朝その旗に正対して右手を胸に当て、先生の音頭の下「アイプレジョリージェンスムニャムニャア・・」という意味不明の呪文を称えるわけである。いくら小学校1年生だと言っても、筆者だってその儀式が、米国民が国家に忠誠を誓っているらしいことくらいはよくわかる。なので、自分は日本人だから、この呪文は称えなくてもよいのかと思っていたら、担任の先生から、「あんたもやるんだよ」と言われて、有無を言わさず儀式に加わることとなった。察するところ、担任の先生に悪意があったわけではなく、米国は移民の国で、各種の民族がさまざまな手続きや枠組みで合衆国の地にやってきているわけであるから、合衆国にやってきて、その地で生活している者は広い意味ではみんな合衆国民というわけで、国旗への忠誠を誓っても別に違和感はなかったのであろう。あるいは、当時は未だ第二次世界大戦が終わって十年と少ししか経っていない頃で、クラスの子供達みんなが戦勝国アメリカの国民である中で、筆者一人敗戦国日本の国民として肩身の狭い思いをさせてはかわいそうだという思いやりがあったのかもしれない。あるいは、アメリカ人には「何でもアメリカが一番」というややお節介がましい思い込みがあるので、敗戦国のアジア人種の子供にも、米国民らしき待遇を用意してあげるのが、彼らの善意の表れであると思ってしまうようなところがあったのかもしれない。
ともあれ、この稿の筆者は、毎朝右手を胸に当て、日本人としてかすかな抵抗を感じながらも、星条旗に正対して「アイプレジョリージェンスムニャムニャア・・」と称えていたわけである。それと同時に、わずか十数年前の戦争でアメリカ合衆国(だけでなく、連合国側が)いかなる大義を持ってわれわれ枢軸側と闘い、そして勝利したかといったような理想も自然と会得し、身についていった。それは、言論や信仰の自由とともに、国家の制度に三権分立や民主主義という権力抑制装置(小学校低学年ではよくわからなかったが)を持ち、さらに「国際紛争において、力による現状変更をしない」という理想であったりもした。今日でも筆者は、上記のような大義は、たとえば日本が「大東亜共栄圏」とともに掲げたアジアの民の白色人種からの解放などというレイシズム的な理想に比較しても魅力のあるもの、そのために生命を賭すべきものであると思っている。
最後に蛇足となるが、日本国憲法の前文を日本語で読むと(当然原作者は米国人なので)、憲法にふさわしくない悪文であるとする意見があるが、この稿の筆者はこれの英文を読んで、涙が出るほどの名文だと思っている。これも「アメリカの大義」をあらわす文章の一つだからなのだろうか。2025年3月31日
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褌と腰巻
先ず、江戸時代の中頃くらいまで、布というものは今よりはるかに貴重品であったことを書きたい。現代に住む私たちのように、毎年ユニクロあたりで新品の服を買って着るなどという贅沢は許されず、庶民は概ね古着屋で買った二、三着の服で一年を過ごしたようだ。それでも江戸時代になってからは、絹や木綿の布を着物に使う習慣が普及したが、それ以前は着物に用いる布は主として麻であった。その麻の時代に人々はどのような下着を用いていたのか、ということに興味があって、いろいろ調べてみたのだが、どうも正確な知識を提供してくれるサイトが見つからない。以下は、この稿の筆者の想像も交えて、おそらくこうであっただろうという記事と受け取っていただきたい。
絹や木綿が普及する江戸時代まで、日本では明確に下着と言えるものはなかった。男性について言えば、長めの麻の布を腰の周りにぐるぐる巻きにして、それ一枚でパンツとズボンの両方の役割を果たした。女性について言えば、都会では一種の腰巻布を用いる場合もあったが、田舎ではそもそも上衣と下衣の区別はなく、かつ陰部を隠す、あるいは陰部を守るような布の存在はなかったと考えてよいのではないか。男女いずれも「ノーパン」がスタンダードな習俗であったようだ。
さて、木綿の普及と共に、男性では六尺褌、女性では腰巻布という明確に下着の概念を持ったものが用いられるようになった。このうち、六尺褌について言えば、普及の始まりが江戸時代初期、全国の小中学校で用いられなくなったのが東京オリンピック後の1960年代と、首尾が比較的はっきりしている。日本文化の中で、ちょうどこの時期と一致するものに「武士道」というものがあって、この稿の筆者の頭の中では、六尺褌はなんとなく武士道の象徴のような位置を占めている。もちろん六尺褌の用途は武士に限らず広いものがあって、現在でもお祭りの神輿担ぎの折などには、六尺をキリリと締めた若い衆の姿を見ることが出来るし、一部私立学校の海浜学校や海辺の漁師さんなど海にかかわる人が、安全(溺れたときに船の上から救助しやすい、あるいは鱶避け)のために六尺褌を着用することは今日でも行われている。一方、明治の終わり頃徴兵制の日本陸軍の支給品としてより簡易な越中褌(三尺ほどの晒し布の片辺に紐がついているだけの褌)が採用されたことから、六尺褌に有力なライバルが生まれることとなった。たしかに軍服というものは洋装であるから、袴の中で嵩張る六尺褌よりも、ズボンの下でハンドリングが簡便な越中褌の方がより便利であったのであろう。「緊褌一番」を尊ぶ武士道精神の象徴が六尺褌であったとすれば、越中褌は徴兵制下の国民軍の象徴であったということも出来るのではないか。
次に、女性の腰巻について稿を遷したい。腰巻も、はじめは下着ではなく、夏季に上半身部分を省略し下半身部分のみを紐で腰に巻いた衣装であった。が、後に肌に直接触れる布である「湯文字」も、腰巻の類とされるようになった。1932年12月日本橋白木屋において歳末商戦のさなかに火災が発生し、従業員など14名が犠牲となった。その後の記者会見で白木屋幹部が、犠牲者が多く出たのは女性従業員が、下着として腰巻しか身につけておらず、上階から飛び降りるのを躊躇したためではないかとして、今後はズロース着用を推奨すると述べたことから、ズロース、パンティなど洋式の下着を和装の下に着けることが普及したらしい。が、犠牲者は飛び降りることを躊躇したのではなく、煙に追われて窓から飛び降り、犠牲となったのが真実のようである。白木屋が洋式下着普及のために、上記のような伝説を広めたとするうがった見方もある。2025年2月28日
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学校
学校というものの歴史は古いが、学校教育制度というものが出来て全国津々浦々に学校が配置されるようになった(これを普通教育制度と言ったりもする)のは、概ね近代国民国家の成立と期を一にしている。たとえばヨーロッパ中世の封建制の下では、学校のオーナーは君主か教会なのであって庶民も含めてどこでも誰でもが学べる場所ではなかった。英国革命、フランス革命などを経て国民国家が形成されるに及んで、全国的且つ衆庶も対象とする、学校制度が整備されるようになったのである。初等中等の学校制度の下では、国民の識字率の向上が図られると共に、四則演算や地理、歴史、自然に関する知識など基礎的な学力が等しく国民に授けられた。我が国ではこれらの学力を「読み書き算盤」と言ったりする。こうした基礎的な学力は、先ず男子にあっては国民を徴兵し、兵士として一律に軍に動員し、あるいは平時の工場労働者として勤労にあたらせるための標準的な能力であったし、女子においても、男子が兵営に動員された後に、家庭ではなく社会の隅々で男子の代わりの役割を果たすために必要なものであった。つまり学校制度下で授けられる知識能力は、なべて国民一律同型の「標準的」なものである必要があった。個々人が多様な能力をそれぞれに伸ばしたのでは、上記のシナリオは成立しなかったことを明記しておきたい。
しかし一方で、あらゆる階層の国民に等しく基礎学力を授けるという営みには、きわめて啓蒙的な意味もあった。それまで社会的な知識を持たない故に、不当な労働に縛り付けられていた男子や、家庭において男性である父や夫に縛られてきた女性に、社会と自分との関係を見る目を開かせたのも学校が与えてくれる基礎学力であったと言える。この時代の学校を描いた様々の小説を読むと、貧しい家庭の子弟に知識を授けて自覚を促す教師の話というのが多くみられるのは、こうした学校制度の啓蒙的な意味に起因している。(山本有三「路傍の石」など)
さらに、学校は単なる知識を授与する場であるだけではなく、人格を涵養したり(アミーチス「クオレ・愛の学校」)、あるいは国民としての愛国心を訴求(ド-ディエ「最後の授業」)したりする場でもあった。我が国においては、学校は地域コミュニティーの重要な機関の一つであって、村の諸行事には、村長とならんで小学校長、郵便局長、警察署長が列座するのが通例であった。また、校歌、制帽、部活動などをつうじて、学校は、生徒の将来における兵営や工場のモデル(祖型)としての役割も果たしていたのである。
さて、この稿の筆者は、こうした学校の、国民一律同型の「標準的」な知識授受の機能(今日で言えば、学習指導要領に基づいた標準的な学力の養成)が、インターネットやAIの普及による「知の爆発」(学ぶべき知識の総量が爆発的に拡散する)によって無意味なものとなり、現代においては、従来の学校教育とは別の形の知へのアプローチが求められていることを述べたい。現在求められているのは、学校で知識そのものを授受するのではなく、真偽定かならぬ様々な情報に満ちあふれているインターネット社会の中で、どのように正しい知識に行き着くことが出来るか、その方法を学ぶことである。もちろん、その方法を学ぶために、ある種の知識の授受をモデルとした知へのアプローチの実習や演習というものは必要であろう。が、学ぶべきは知への接近の方法であって、個々人は会得した方法に基づいてそれぞれの知の世界を形成するのが、現代における新しい学校のあり方ではないかと思うのである。2024年12月27日
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原爆許すまじ
この稿の筆者は、高校生時代の終わり頃「声なき声の会」という市民運動団体に参加していた。この団体の定例の会合は、信濃町駅の裏にある真生会館というキリスト教系の会館で開催されていたが、当時(今から半世紀以上昔)この会館では、ほかの労働組合や市民運動などの会合もよく行われていた。私たちが会合を開いていると、隣の部屋から、「がんばろう!」などの労働歌の声が聞こえてきたりすることもあった。そうした中で、筆者がとくに感銘を受けたのが、「原爆許すまじ」という歌であった。
「ふるさとの街やかれ、身よりの骨うめし焼土(やけつち)に、今は白い花咲く、ああ許すまじ原爆を、三度(みたび)許すまじ原爆を、われらの街に」i
という、どちらかというと暗鬱なメロディの歌であったが、当時は、まだ街に被爆者(ヒバクシャと片仮名で表記されていた)が多数現存されていて、原爆という悲惨な出来事を再び繰り返してはいけないという日本人の決意のようなものがよく伝わる歌であった。
さて、今月は、たとえば、「核兵器廃絶」というとき、海外の人々と我々日本人とでは、少し感覚が違うのではないかということを書きたい。要約していえば、海外の人々にとって核兵器廃絶とは、大量破壊兵器としての核兵器を使えば、人類が滅亡するという判断が根拠になっているように思うのに対して、日本人のそれは、むしろ残虐兵器としての核兵器への強い忌避感が根拠になっているように感じるのである。
以下、核兵器というものが人体にどのような影響を及ぼすものであるかを、簡単にスケッチしたい。
放射線を大量に浴びると身体に重い障害があらわれる。被曝直後には全身の脱力と吐き気、嘔吐が見られ、その後いったん症状は軽快し、約3週から2ヶ月後に脱毛と口内炎が発症する。さらに白血球や赤血球、血小板など血液細胞を作れなくなったり(造血障害)、胃や腸などの消化管の粘膜が傷んだり、脳の機能が障害されてけいれんを起こしたりする。
こうした急性障害の症状が落ち着いて5ヶ月以上たった後、がんをはじめとする晩発性障害が出現する。放射線は、また、身体を構成する細胞に損傷を与える。細胞の中では、遺伝子DNAからメッセンジャーRNAが転写されて、タンパク質が作られている。放射線の標的はDNAである。放射線はDNA二重らせんを切断する。これによって様々の遺伝子障害が惹起される。ii
つまり、放射線の被曝による人体への影響は、核兵器の爆発直後から、(もしそれを生き延びたとしても)その後の人生の長い期間に及ぶものであり、場合によっては、子孫にさえも及ぶ可能性があるのだ。
もちろん、核兵器の大量破壊兵器としての側面に目をつぶって良いということではない。世界には、人類を何回も滅ぼすことが可能なだけの核兵器が蓄積されていて、もしほんとうに核戦争が始まれば、数日を出ずして人類社会は跡形もなく消えてしまうかもしれない。だが、それにしても放射能、放射線の障害がもしなくて、核兵器がただの爆弾に過ぎなかったとするならば、核兵器が飛んできそうな都会を避けて、どこか田舎に穴こもりしていれば、万が一助かるかもしれない。だが、地球規模の核戦争がもたらすものは、地球規模の放射能、放射線障害なのであって、田舎に穴こもりしたくらいでは、避けることは出来ないのである。i 作詞 木下航二 作曲 浅田石二
ii 広島大学放射線災害医療総合支援センター「放射線を浴びたときの身体障害」
https://www.hiroshima-u.ac.jp/gensai_iryo/aboutradiation/about/effects2024年11月29日
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後宮
今月は先ずアラビアンナイトの話から始めることにしたい。西暦750年頃に成立した、イスラム教主(カリフ)国、アッバース朝は現在のイラクのバクダードを都にした。そのバグダードの王宮に、妻に裏切られて女性不信に陥った王(カリフ)がいて、ハーレム(後宮)の中から夜ごとの相手を選び、だが朝になると口封じのために一夜の相手を殺してしまうことを繰り返していた。それをやめさせるために、大臣の娘が自ら後宮に赴き、王の相手をする際に、面白い話を語って翌朝の命をつなぎ、夜ごとの物語が千夜に及んだ時ついに王は、娘を許して妻として迎えたというのが、千夜一夜物語(アラビアンナイト)の能書きである。
イスラムに限らず、それ以前の古代オリエント、アッシリアやペルシアなどでも、一夫多妻制の文化を持つ国では、王朝にハーレムと宦官がつきものであったらしい。一夫多妻制の考え方は、権力や甲斐性があって、多数の女性を養う能力のあるものだけが多くの妻を持つことが出来るというものであって、おなじ中東由来のキリスト教やユダヤ教のように、階級や社会的立場に限らず、「神と約束した一夫一妻制」をとる宗教というのはむしろ少数派であったようだ。いずれにしても、ハーレムの存在は、一夫多妻制の文化の帰結であり、権力者が「血の純粋性」を維持するために多数の女性を後宮に隔離し、他の男性に接触させないための手段であったと言える。イスラム史上最も有名なハーレムは、テレビドラマ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」で知られる15~16世紀オスマン帝国のもので、コーカサス出身の美人奴隷を買い入れ、イスタンブールのトプカピ宮殿の奥に一時は千人に及ぶ後宮を形成したと言われている。この女性達を監督したのが、黒人奴隷出身の宦官であり、黒人の宦官長はやがて表の宰相に対する裏の最高権力者となっていったという。
このような、後宮と宦官のセットは、儒教文化に基づく中国の王宮にも存在した。中国においても(儒教の始祖の孔子は春秋時代の人だが、それより前の)周の時代から、一夫多妻制と、後宮への女性隔離はあったようだから、必ずしもこれは儒教文化に基づくものだけとは言えず、広く東洋の一夫多妻制文化の帰結であると言える。いずれにしても、中国の各王朝においても、後宮と宦官はつきもので、また歴史的に見ても、後宮と宦官は権力抗争の主要な要素の一つであったと言える。
ちなみに、儒教思想の下では、後宮と宦官という「裏」のシステムを経ないで、女性が「表」の権力を握ることは強く忌避された。中国史上その禁を犯して「表」の権力を握った女性は、唐の前半期に出現した則天武后(一時ではあるけれども「周」という国号を立てて女帝となった)だけであろう。
則天武后はそれ故に自己の治政下では儒教に替えて仏教を重んじたが、その死後儒教思想が復活すると、武后の世はその斬新な治政にもかかわらず、否定的にしか評価されなかった。
さて、我が国はと言えば、すくなくとも室町時代くらいまで、京都の宮廷に明確な女性隔離の思想はなかった。一夫多妻制ではあったのだが、たとえば源氏物語などを読むと、天皇が「血の純粋性」を維持するための努力を怠っていて、他の貴族が夜ひそかに后や妃の元に通ったりしている。
江戸時代、徳川氏が国内安定のために儒教秩序を導入してから、武家文化の中では「大奥」という一種の疑似後宮が生まれたが、江戸の大奥が他の東洋の国々の後宮やハーレムと決定的に異なるのは、宦官を置かなかったことである。その代わりに大奥には、将軍の妻妾とは異なる役割の女性の「年寄」が存在し、この者がかなりの程度に政治的発言力も持つことになったのである。
2024年10月31日
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おかずとシリアル
シリアルと言うと、コーンフレークとかオートミールとか、なんだか箱に入っている朝食用の穀類で、西洋人が牛乳を掛けて食べるようなイメージがある。が、シリアルとは本来上記を含む「穀物」「穀類」という意味である。だから、我が国で言えば、白米、ご飯。中華の饅頭や餃子の皮、イタリアのパスタやピザ生地、みんな広義のシリアルである。で、今月はこの稿の筆者が、各国の食物の中では、「おかずとシリアル(穀物)」を一度に食するものが好みであるということを書きたい。以下後述をご覧いただければおわかりのように「おかずとシリアルを一度に食するもの」とは、概念としてはファーストフードにほぼ近い。
先ず我が国では、なんと言っても、おにぎり及び丼ものが「おかずとシリアル」の代表選手である。
おにぎりの起源は古く、奈良時代初期、元明天皇の詔により日本各地で編纂された「風土記」のひとつ「常陸国風土記」に「握飯(にぎりいい)」の記述が残る。また、1221年の承久の乱で、鎌倉方の武士に兵糧として梅干入りのおにぎりが配られ、これをきっかけに梅干が全国に広まったとされる。ⅰ おにぎりには丸い野球ボール型のものと三角形のものがあり、前者は帝国陸軍、後者は帝国海軍に由来するという話もある。丼ものの歴史は比較的浅く、天丼が江戸時代、カツ丼や親子丼は明治以降となる。中華料理においては、(饅頭はただのシリアルに過ぎないので)肉入りや餡入りの饅頭、春巻き、餃子等の点心類が「おかずとシリアル」の代表である。肉まんについては、諸葛孔明が南征の途上、川の氾濫を沈めるための人身御供として生きた人間の首を切り落として川に沈めるという風習を改めさせようと思い、小麦粉で練った皮に羊や豚の肉を詰めて、それを人間の頭に見立てて川に投げ込んだところ、川の氾濫が静まったという起源説話がある。ⅱ
次に西洋に移ろう。英国代表は、サンドイッチとパイ。カード博打好きのサンドイッチ伯爵の話は以前本欄に取り上げた。フランス代表は、カスクートという細長いフランスパンに、ハムやチーズを挟んだものだろうか。意外なのはドイツ代表。ハンバーガーの起源はアメリカではなく、ドイツはハンブルクで船乗りらに売られていた料理“Hamburger Rundstück”(「ハンブルクの丸いもの」という意味で、牛肉のステーキと目玉焼きを半切のパンにのせていた)がアメリカへ伝わり、「ハンバーガー」と略称されるようになったという。ⅲ もう一つのアメリカの国民食ホットドッグもドイツ由来。ホットドッグの発祥は、19世紀中盤。アメリカへやって来たドイツ移民が、フランクフルトで食べられていたソーセージ「フランクフルター」を持ち込んだことが始まりと言われている。
イタリア代表は、パスタとピザ。パスタがいつ歴史に登場したか、はっきりとしたことは分かっていない。古代ローマで主食にされたプルスという食べ物がその元祖と言われている。これは小麦やキビなどの穀物を粗挽きにし、お粥のように煮込んだもの。同じく古代ローマ時代に存在したテスタロイは、その粥を板状にして焼いたもので、ピッツァやラザーニャの原型に近いものと言われている。中世を迎えると、パスタを生のままスープに入れたり、ゆでてソースとあえるようになったと考えられている。13~14世紀のイタリアでは、パスタは一般家庭に普及するようになり、15世紀にはスパゲティの元祖ともいえる棒状の乾燥パスタが作られていたようだ。ⅳ
なお、メキシコ代表としてトウモロコシ粉のタコス、トルティーヤも忘れてはなるまい。ⅰ 一般社団法人おにぎり協会「おにぎりの歴史」 https://www.onigiri.or.jp/history
ⅱ Wikipedia 饅頭(中国) — 『事物紀原』卷九の酒醴飲食部四十六
ⅲ Wikipedia ハンバーガー
ⅳ 日清製粉グループ 小麦粉百科 パスタの起源 https://www.nisshin.com/entertainment/encyclopedia/pasta/pasta_03.html2024年9月30日
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恋愛ホース論
昨月号の本欄では、世界の国々が経済発展を遂げて、いわゆる成熟社会になるにつれて、人民は次第に自由主義、民主主義を求めるようになり、今日先進諸国がよく言う「共通の価値観」を分かち合うようになる(と、信じたい)という話を書いた。
一方で、成熟社会なるものには、これまでの人類社会の爆発的とも言える成長とは異なる、あらたな特徴が生じていることも見逃すわけにはいかない。
まず「衣食足りて礼節を知る」ではないが、成熟社会においては、地球の他の国々に比較して概ね食糧は満ち足りていて、医療技術も進んでいるので、簡単に言えば、人が死ななくなる。人が死ななければ当然平均寿命は延びて、高齢化が進む。一方で、日々の糧を稼ぐためにではなく、男女が共に個人としてのやりがいや達成感のために仕事をするようになり、結果として避妊技術の進歩をベースに、結婚時期が他の社会よりおそくなり、且つ結婚しない者も増えてくる。さらに性的多様性への社会の理解も深まり、「男女が夫婦になって、社会の労働力を担う子供を産むことだけが価値」であるような社会から、価値観も多様化する。要すれば、社会の出生率が低下し、少子化が進む。以上が、成熟社会の少子高齢化と言われる現象のスケッチである。
が、本稿で述べようとするのは、(おそらくこの少子高齢化現象とも無縁ではないのだろうが)もうすこし、社会の上部構造というか、文化や人々の心の持ちようについての話である。
これは、この稿の筆者の世代が生きている間だけでもかなり変化してきたことなのだが、この頃の我が国では「炎のような恋愛」に身を灼く若者が明らかに減ったように感じるのである。時代をわれらの青春時代である昭和戦後期ではなく、もう少し昔の明治・大正期まで広げれば、大半の国民が親の決めた配偶者と、現在よりもかなり若年で結婚する習俗があった一方で、いわゆる「駆け落ち」や「不倫」(第二次世界大戦前の日本では、既婚女性の不倫は法律上の犯罪であった)をいとわず「炎のような恋愛」に身を託す者もまた多かったし、なによりもそうした「やっちまった」恋愛ではなく、単なる心の中で、自分の手の届かない異性を恋い焦がれる経験に至っては、おそらく数割の国民が共有していたのではないかとすら想像されるのである。翻って、今日の同棲合法、16歳以上の性交は己の判断で出来るという、たいへんけっこうな社会に生きている若者らが、どのような恋愛関係をもっているのかを考えると、「親の許しも得ずにつきあう」「一緒に住む」という環境自体は百年前の若者達が涎を流して羨ましがるであろうものが用意されているにもかかわらず、その心の持ちようは、必ずしも「炎に身を灼く」ものではないように思われる。
それは何故か。理由は明白で、今日の恋愛には禁忌がないからである。恋というものは、禁じられるから燃えさかるのであって、何もかも許されるような「何でもあり」社会では、恋愛は、日常の飲食と同様なものに過ぎず、べつにその度に顔を赤くしたり、興奮したりするようなものではないのではないか。この稿の筆者は、上記の考えを「恋愛ホース論」と呼んでいる。すなわちホースを通過する水の量が一定である場合、ホースの口を締めて水が通過する経口の面積を小さくすれば、水は勢いよく遠くに飛ぶが、経口面積が広ければ、水はポタポタとホースの口からこぼれ落ちるのみである。よほど巨大な量の性欲の持ち主でもない限り、「何でもあり」社会の恋愛ホースで水を遠くに飛ばすのは難しい。かといって勿論、禁忌を復活せよというのではないのだが。2024年8月30日
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自由の天地
この稿の筆者は、第二次世界大戦直後の生まれ、いわゆる戦後民主主義の価値観の中で育った。その価値観とは、第二次世界大戦の結果自由主義が専制主義(あるいは権威主義と言い換えてもよい)に勝利し、その自由主義の下、新しい世界秩序が生まれたというものである。敗れた我が国は勝者アメリカによって、新しい価値観に基づいた憲法を「与えられた」にもかかわらず、大多数の日本国民はそれを積極的に受入れ、支持した。実際筆者は今でも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しよう」という非武装平和の理想を、困難と知りつつも涙が出るほど尊いものだと思っている。さて、自由主義の本質は何かというと、人民に対する権力の抑制である。人権宣言、三権分立、代表なければ課税なし、そして「自由、平等、博愛」。これらは、主に英国名誉革命、米国独立戦争、フランス革命という18世紀頃の欧米諸国の近代国民国家建設の中から生まれた思想であり、やがて、多かれ少なかれ後進の近代国家にも引き継がれた。尺度で言えば、「人民に対する権力の抑制」のメカニズムが機能している国が先進諸国であり、十分に機能していない国(専制主義の度合いが強い国)が後進国であるというのが、自由主義のものの見方である。しかも、20世紀に起きた二度の世界大戦において、自由主義諸国家は苛烈な犠牲を払いながらも専制主義諸国に勝利したので、20世紀の後半からは、自由主義の価値観が世界秩序の基盤となった、というのが自由主義的な理解であろう。未開の後進諸国は、近代化の過程では、一時的に専制主義の形態を取ることがあっても、経済的発展を遂げると次第に自由主義化し、先進諸国のように権力抑制の政治メカニズムを持つようになることが、予測された。
だが、ここに一つの落とし穴がある。それは、国内では自由主義を標榜した英米仏などの近代先進国家は、同時に世界の後進諸国を植民地支配し、その植民地では多かれ少なかれ横暴な、専制主義的な支配を行っていたという事実である。先進諸国はその理由を「後進諸国は未開で即時には自由主義に耐えられない」として正当化しようとしたが、支配される側から見れば、それは自由主義の二枚舌であるとしか見えなかった。20世紀後半、これらの植民地は次々と独立を遂げ、少なくとも表面上は欧米諸国の軛を脱し、国内的には、建前上自由主義的な憲法秩序を持ったが、実際にはその「貧しさと後進性故に」かなりの程度に専制的な権力によって支配されることが多かった。
ソビエトや中国などの共産主義諸国も、類別すればこうした発展途上の専制主義国家の一種であるとすることも出来る。忘れてはならないのは、こうした発展途上の国々では、人民がそもそも自由主義の経験を持たないことである。今日の専制主義国家の指導者、たとえばプーチンや習近平は、第二次世界大戦の結果が「自由主義の勝利」だとは思っていないだろうし、自国が経済的に発展し豊かになったとしても、人民が自然に「権力の抑制」を求めるようになるだろうとは思っていない。20世紀末、ソビエトが崩壊し、天安門事件が起きた頃には、ロシアでも中国でも人民が自然に「権力の抑制」を求めるようになったかと思えたものだが、その後の経過をみると結局の所また専制主義に回帰してしまい、21世紀前半の今日では、いわばかつての欧米諸国におけるウィーン会議体制のような反動が多くの国々に起きているように思える。それでも筆者は、ベルリンの壁の崩壊、その直前にハンガリーとオーストリアの国境を越えた東欧人民の歓喜の顔を忘れることが出来ない。
国が豊かになれば、人民は自由の天地を求める。それは「信仰」に過ぎないのだろうか。2024年7月31日
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トロイの木馬
ギリシャ神話というのは、日本の古事記みたいなもので、半分神話、半分歴史を著したものである。「トロイの木馬」はそのギリシャ神話のトロイア戦争の条に出てくるお話である。ミュケナイ、スパルタなどギリシャの都市連合とトロイア(ダーダネルス海峡南方、現在のトルコ内の都市)との間でおこった戦争は、両軍の勇将アキレウスやヘクトルの戦死を経て膠着状態、長期戦と化した。
開戦十年を経て両軍共に戦争に倦み始めた頃、ギリシャ方の知将オデュッセウスは、ある計略を思いついた。ギリシャ軍はついにトロイア近郊の浜から去って、海へ撤退。あとには巨大な木馬が残されていた。トロイア軍は、木馬を戦利品として城内に持ち帰り、凱旋した。ギリシャ軍撃退に沸くトロイアの深夜、木馬の中に潜んでいたギリシャ軍の小部隊が、密かに内側からトロイアの城門を開くと、撤退したはずのギリシャ軍がそっと戻ってきて、トロイアの町に攻め入り、トロイアはついに滅亡したというのが、「トロイの木馬」伝説のあらすじである。
さて、ここからは現代の情報セキュリティのお話。今日「トロイの木馬」(英語でTrojan horseという)は、コンピュータの中に住み着くマルウェアの一種をあらわす言葉として使われている。「トロイの木馬」はコンピュータウィルスと似ているが、少しだけ違う特徴がある。コンピュータウィルスが特定の宿主(ファイル)を持ち、ウィルスによって改変された宿主が、次々と感染を引き起こすのに対して、「トロイの木馬」は殆ど感染拡大しない代わりに、時限爆弾のようにコンピュータの中に密かに住み着いて、ある時がくると突然起動し悪さを始める。「トロイの木馬」の行う悪さの代表的なものは情報漏洩で、この稿の筆者が知っているある研究機関では、約三年間も「トロイの木馬」が住み着いて、サーバー内の研究上の機密情報をこっそり外部に送り出していたことが、後に判明した。もちろん漏洩する情報の中にはこうした企業秘密だけでなく、端末へのログインIDとパスワードの組み合わせ、端末に格納された個人の口座番号や社会保険番号などの個人情報も含まれる。そのほかにも、神話の「トロイの木馬」と同様に、トロイの木馬の中の機能が、コンピュータセキュリティ上の防御機能(城門)を無効化し、その部分の脆弱性を利用して外部からサイバー攻撃を仕掛けて成功させるというような手口もある。社会的な被害例としては、2013年に韓国で起きた、主要放送局と銀行のネットワークが一斉にダウンし、テレビと銀行が終日機能不全に陥った事件なども、「トロイの木馬」の仕業ではないかと噂されている。我が国では、2015年に日本年金機構の100万人以上の個人情報を流出させた、遠隔操作型ウィルスEmdiviを「トロイの木馬」の一種とする見解もある。
以上述べたのは、主にコンピュータソフトの世界の話であるが、この稿の筆者が、本業の専門としている対象にハードウェアトロージャンという「木馬」がある。略称をHTというこの「木馬」は、たとえば半導体チップの回路の中や、組み込み機器(マイクロコンピュータで制御される小さな機械、たとえば自動車、ロボット、医療機器、監視カメラなどのさらに内部の電子部品、センサなど)内に住み着く極小の回路であって、ソフトウェア界の「木馬」同様に悪さをする。HTは、情報漏洩のような複雑な悪さができる機能はない。が、半導体や組み込み機器は大量生産されるので、たとえば、決められた時刻が来ると、同じ型式の機械が、全国一斉に止まってしまう(応用で、外部から機器などに短い停止命令を入力して無効化してしまう)などという悪さをすることは出来る。筆者は、ウクライナの次の時代のサイバー戦争では、このHTが登場するのではないかと思っている。2024年6月28日
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幕臣四態
慶應3(1867)年10月徳川慶喜が大政を朝廷に奉還してから、翌々明治2(1869)年5月箱館戦争終結までの期間をここでは広義の戊辰戦役と呼ぶことにする。今月は、戊辰戦役における徳川家臣団(旧幕臣)の対応を、封建と近代、恭順と抗戦の二つの軸で四態に分けて評価していきたい。
まず、戊辰戦役における東軍(徳川方、抗戦派)にも二種類があったことがこの稿の主題である。
封建-抗戦派の代表格は、言うまでもなく彰義隊である。彰義隊ははじめ寛永寺大慈院で恭順している徳川慶喜の警護を名目に結成されたが、その本意は薩長の政権簒奪を容認せず、徳川家への忠節を尽くすということにあった。武器は概ね刀槍。旗本の二、三男等で武術に自信がある者と、東日本の草莽出身で幕末になって徳川氏に臨時で雇用された者などを中心に構成された。束ね役は上野国の元名主出身の天野八郎。アジテーターは覚王院義観という坊さんだった。彰義隊は江戸市民の間では大人気を博したが、やがて大村益次郎率いる新政府軍の近代兵器に追い詰められ、明治元(1868)年5月15日、上野寛永寺における一日の会戦で壊滅した。
一方、近代-抗戦派の代表は、なんと言っても榎本武揚率いる旧幕府海軍と旧幕府陸軍の脱走部隊や新撰組の残党などで構成される蝦夷共和国の一党であろう。旧幕府海軍が脱走を敢行したのはそもそも彰義隊が壊滅した数ヶ月後、徳川慶喜の処分と静岡藩の立藩が決まった後のことであるし、箱館行の趣旨も、七十万石に減知され家臣団の食い扶持に困った徳川家に、蝦夷地を賜って開拓したいというタテマエであった。つまり薩長による新国家の建設自体は否定していないのである。その一方で、この一党の軍事力は、大政奉還までの日本政府軍の中核部隊を成すもので、薩長を中心とする当時の西軍に十分拮抗しうるものであった。要求を通す自信もあったのだろう。
このように、メンタリティにおいても前者は徳川氏に対してウェット、後者はややドライと違いがあるが、以下に記す恭順派との大きな違いは、西軍が旗印に掲げる「天皇・錦旗・官軍」というものに対して、かなり鈍感であったということだろう。
さて、紙数が尽きるので簡単に恭順派のことについて触れたい。封建-恭順派は、いわば大多数の旗本・御家人。徳川家への忠節の念には遜色なけれども、上様が恭順なさるのであれば、黙ってそれに従い、ほかに飯を食う手段も手に職もないので、無禄にちかい減給を覚悟して、新たにできる静岡藩に、十六代となられた徳川亀之助君のお供をするというものである。この人々は実際に静岡に行ってから、武士という身分そのものがなくなるという近代への動きの中で、様々な苦労をすることになる。箱館戦争の反乱軍が(手に職を持っていたが故に)比較的早期に赦されて新政府の役職に就き、活躍の場を与えられたのに比較しても、不遇であった。
最後に、近代-恭順派の代表選手は、徳川慶喜その人と西周ら周辺のブレーン達であろう。あるいは、(少し近代度は落ちるが)松平容保や松平定敬もふくめて、孝明天皇が存命であれば、もしかすると日本国の別の近代化を成し遂げたかもしれない「一会桑」派の人々がこのジャンルに当たる。この人々を特徴付けるものは、近代化に向けての十分な教養と抱負を持ちながら、国民統合の象徴たる天皇へのメンタリティが極めて厚く(尊皇の気持ちが強く)、それだけに「天皇・錦旗・官軍」にとても敏感であったことであろう。この稿の筆者としては、この近代-恭順派の人々が廃藩置県や四民平等に対して、どのようなビジョンを持っていたかを、もう少し知りたいのだが。2024年5月31日
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総力戦
第一次世界大戦というものは、日本にとっては、中国の山東省青島にあったドイツ要塞の攻略と、海軍小艦隊の欧州派遣くらいがトピックスで、日清、日露戦争から太平洋戦争に至る十年おきくらいに大日本帝国が続けてきた、謂わば連続的な戦争の一環に過ぎない印象がある。
が、世界史的に見れば、第一次世界大戦は、第二次世界大戦に優るとも劣らないくらいの画期であり、戦争というものの定義を根本から変えてしまうものであった。それはどのような画期だったかというと、まずこれまでに見なかったような大量の戦死者が出たこと、軍人以外の犠牲者がきわめて多数にのぼったこと、世界中の有力国が参戦し、長期間にわたって文字通り死力を尽くして戦い続けたこと、戦争開始時に用意された兵器では全く足りずに、両陣営とも戦中に兵器や食糧の生産、そして物流、さらには技術開発の営みを盛んにして、国力を戦争に注ぎ込んだこと、最後に戦争の決着がついたときに、ロシア、オーストリア、ドイツ、トルコなどそれまで帝国として世界に君臨してきた国々が滅亡したことなどが挙げられる。
これを要すれば、戦争は、軍隊という国家の部門が行う軍事的な争闘から、国家全体が行う政治、経済、軍事的な営みへと「発展」したということになる。そのような戦争の様相を、「総力戦」という言葉で呼ぶことが多い。総力戦とは、近代国家の総力を挙げて、国家の滅亡を賭してたたかう戦争と言うほどの意味である。
第一次世界大戦の後、もうこのような悲惨な世界戦争を、二度と起こすまいとの動機から、国際連盟という一種の世界政府的機構の萌芽が構築され、侵略戦争と武力による現状の変更は国際法的にも違法と言うことになった。が、その一方で世界の主な国々では、「次の総力戦」に備えて、戦時に国家の総力を効率よく動員する計画と法制の整備が行われた。そのことを「総動員体制」の整備という。我が国では、1938年(昭和13年)第一次近衛内閣の下で制定された国家総動員法が有名であり、第二次世界大戦後は、この法律の制定が日本の軍国主義化を決定づけたと評価されている。(が、法の本旨は、少なくとも始めは戦時における物資等の効率的な動員にあった)
「総動員」には、様々な側面があるが、主な特徴として、経済統制と言論統制の二つを挙げたい。
経済統制は、生産と物流の側面から国家の(戦争)目的に適うように、政府が計画的に民間企業の活動を規制し、資源を配分しようとするもので、第二次世界大戦の際には両陣営がともに行ったものであるが、企業活動における所有と経営の分離にどこまで踏み込んでこれを行うかによって、自由主義経済における臨時の規制なのか、国家社会主義的な企業統制なのかがかわってくる。
言論統制について言えば、戦時における情報管理(守秘)や防諜を目的とした規制は、多くの国で行われたが、それだけでなく、謀略や戦意高揚を目的として意図的に曲げられた情報発信を、政府が計画的に行うことも、総動員のための言論統制に数えられ、正当化される場合が多かった。その目的は、はじめ戦争の勝利に限られていたが、第二次世界大戦後は、「国家の存亡」のためには、意図的に曲げられた情報発信を、政府が計画的に行うことも正当化されるとする拡大解釈が、一部の情報機関や軍によって行われ、そのことが専制政治の温床となっている面も見逃せない。
結局の所、「総力戦」のための「総動員」は、パンドラの箱のようなもので、一度これを開ければ、「総力戦」の後に、自由と民主主義に復帰するのに、多くの困難が伴うことを知るべきなのである。2024年4月30日
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札幌の葬い
この数年の間に本誌で何度か、名古屋の嫁入り、岐阜の嫁入りなど昭和期の中部地方の婚礼について書いた。この稿の筆者が、人生の中で住んだことのある地方都市は、中部地方の名古屋と北海道の札幌である。そこで今月号では、昭和期の札幌の葬祭習俗について書くことにしたい。
まず、一般論としてだが、昭和期の日本の田舎では、どちらかというと婚礼は「家」の行事、葬礼は「村」の行事という傾向があった。すなわち結婚披露の主催者は新郎新婦の父親であり、案内状も「この度両家の婚儀相整い、ささやかながら披露の宴を催したく、ご多忙の所恐縮ながらご来駕給わりたく・・」といった文面が通常であった。一方葬礼はというと、故人が誰であっても「家」の者は遺族であるから、故人を悼んで呆然としていることが多く、周囲の地域の者が、葬式の世話やら通夜の炊き出しやらを手伝うのが通常であった。よほどの分限者になれば、それでも通夜の門前には大きな○○家と墨書した提灯か何かを掲げたものだが、あまり金のない家であれば、玄関先は「忌中」の貼り紙で済まし、家の中では近所のおばさん達が立ち働き、座敷ではこれも近所の者が故人を悼むにしてはやや無遠慮な酒盛りを行い、遺族は奥の一間の棺の前で、おとなしくめそめそしているというのが平均的な姿であっただろう。
さて、北海道である。北海道はその昔、開拓民の土地であり、開拓民とは、一度本土の故郷と親族を捨てて海を越え、北辺の地に入植した者である。なので、故人の遺族なる者は、同じ屋根の下に住む数名以内であって、隣近所とか離れた土地から「親戚のおじさんおばさん」などが駆けつけてくることは余り想定されていない。そこで、葬祭自体が村落の行事として扱われ、実行委員会主催の形式で行われる。実行委員長は、村落の長老とか、町内会長とかが就任する。昭和期でも第二次世界大戦後になってくると、札幌の市中ではいわゆる地域コミュニティのつながりが次第に薄くなってくる傾向にあり、その場合、実行委員長は括弧付きの「ご近所の有力者」ということで、地元の市議や道議といった政治家に頼んでなってもらう様な場合も多くあった。
葬儀の会計(香典を集めて、寺または式場や坊さんの支払いに充てる)も実行委員会単位で行うので、赤字にするわけにはいかない。よって葬儀費用は本土の葬儀よりも質素なことが多い。この稿の筆者は、十年ほど前にこの札幌形式の葬儀に出席して驚いたのだが、葬儀式場が昼間だけで二ラウンドまわるように運営されていた。私の出席したのは早いほうの会であったので、なんと朝9時開式、10時30分にはもう出棺という次第であった。
もう一つ、この実行委員会形式とつながりがあるのかないのかよくわからないのだが、地元紙の地方版(北海道新聞であれば札幌市東部版とか○○支局版とかそんな頁)にやたらと「普通の人」の死亡記事が掲載されるのである。本土の新聞では、訃報が(広告費を払わずに)掲載されるのは、芸能人、スポーツ選手、政治家等の「有名人」だけであり、一方通称「黒枠広告」というものは高価有料と決まっているから、そんなものを掲載するのはだいたい元企業の経営者とか「公人」のすることであり、結局の所、新聞には「普通の人」の死亡記事は有料でも、無料でも載らないのである。
が、札幌ではだいたい数行くらいずつ、ご近所の普通人の死亡記事が、毎日紙面一頁の半分以上は掲載される。まあ、昔の北海道では人口密度が低かったので、死亡記事でも読まなければ、ほかに情報を知る手段がなく、葬儀に駆けつけることができなかったのかもしれないが。2024年3月29日