自己目的化
麻雀という遊びが廃れて、もはや四半世紀近くになるだろうか。我が国がバブルの頂点に向けて、まっしぐらに高度成長の道を突っ走っていた時分には、世の中の会社員は、この暇つぶしゲームに滅相もないお金を賭けて楽しんでいた。最近では、四人面子がそろわないとできないような遊び事は流行らない。現代の若者は、専らゲーム機に向かって一人で格闘しているし、賭け事の好きなオジサンやオバサンだって、近頃はパチンコという一人遊びにこそ熱中するが、丁半賭博、チンチロリン、ブリッジ、花札、麻雀と何人かの仲間でやるようなアナログゲームはみんな廃れつつある。
さて、麻雀好きの読者ならよくおわかりと思うが、麻雀の下手な人の代表選手は「手作りにこだわる」人である。麻雀を知らない方のために少し解説すると、麻雀というゲームには、色々な「役」という配牌の組み合わせがあって、それらの役のどれかを完成して早く上がった人が一局の勝利者となる。ついでに言えば、誰かが勝利者となるためには「振込み」といって、自分が捨てた牌が勝利者の「役」を最終的に完成させる敗者がいる。つまり四人の内一人が勝利者となると大概は一人が敗者となる仕組みである。敗者は勝者に「役」相応の点棒を差し出すことになっている。それを、八局とか十六局とか繰り返して、総合点を競うゲームである。「役」には、有名な大三元(白牌が三個、発牌が三個、中牌が三個そろったもの)とか、緑一色といって手許の十四牌が全部緑色で他の色が混じっていないもの、字一色(東南西北白発中の各牌が二個宛そろったもの)などがある。が、此処に書いた「役」は皆とても珍しいもので、上がれる確率はそれほど高くない。相当麻雀好きな人でも、(インチキしなければ)一生に何回か上がれる程度である。
では、「手作りにこだわる」人とはどんな人か。開始時に配られた牌を眺めて、こうした希少な「役」ができそうに思えると、高得点かつ上がるのが困難な「大役」を作り込むことにひたすら専念し、もっと早く上がれそうな安直な「役」を顧みない。周囲の競争者がどんな「役」で上がろうとしているかなども全く見えなくなる。その結果、高価な「大役」がもう少しで完成するというときになって、自分が捨てた牌が他人の当たり牌(「役」を完成させる牌)となって「振込み」、敗者となってしまうのである。
「手作りにこだわる」人は麻雀に負けても実は何とも思わない。ゲームに勝つことより、生涯一度の「大役」をつくったという快感を追求するのである。実はこの稿の筆者もその一人で、失う金より、得られたかもしれない夢の方がはるかに魅力に思える。だが考えてもみよう。人類は、生殖という行為を自己目的化して「恋愛」文化を生み出し、生命維持のためにエサを口に入れる行為を自己目的化し「グルメ」探求文化を生み出したのだ。
麻雀の下手な者とは、思い適わぬ女性を求め続けて子孫を残せない男とか、究極の美味を求めて
フグに当たる男のような者ではないか。人類が他の動物と違うところを持つとすれば、それは自己目的化による文化の形成である。「手作りにこだわる」ような人こそ、人類の名誉をもっともよく担っているとは言えないだろうか。
2015年10月1日