伯夷叔斉
紀元前1000年頃(といわれているが、定かではない)中国全体を支配していた殷(最近の考古学の成果から実在したことが確認されている)王朝は終焉を迎えようとしていた。第30代の王は紂王と言って、たいへんな暴君であったと言われるが、とりあえず本稿の主題ではない。
その殷の中に孤竹国という小国があって、国を治める伯に、伯夷、仲馮、叔斉という三人の兄弟がいた。その当時の中国に、長子相続という習俗があったのかどうかは、これもよく分からないのだが、孤竹国の人々は、伯夷が後継者となるだろうと思っていたらしい。ところが、伯の愛情は末子の叔斉に注がれ、叔斉を後継とするようにと遺言して亡くなった。伯夷は、自分が孤竹国に居たのでは叔斉が後継者としてやりにくかろうと思って、国を去った。一方、叔斉の方も、伯夷を差し置いて後継者となることをよしとせず、自分も伯夷の後を追って孤竹国を出て行ってしまった。困った孤竹国の人々は、仕方がないので真ん中の仲馮を立てて後継者としたというお話し。父の遺言を尊重した伯夷は「孝」という徳目を重んじ、兄を差し置いて君主に立つことを肯わなかった叔斉は「長幼の序」という徳目を守ったと言うことになる。
後世漢の時代の歴史家司馬遷が、この二人の伝説を「史記」の冒頭に掲げたのは、有名な話。さらに、本朝の徳川光圀(水戸黄門、事情があって兄を差し置いて水戸徳川家の後継者となった)が、自分のコンプレックスに重ね合わせて、伯夷叔斉の伝説に感応且つ感激してしまい、それが「史記」を真似て「大日本史」を編纂する端緒をつくったというのもよく知られている。
さて、伯夷叔斉の話には後日談がある。孤竹国を出た二人は、流浪の末に周国の西伯昌が仁に厚い名君だという評判を聞いて、仕えようと周に向かった。しかし残念ながら彼らが周の首都に着いたときには昌はすでに亡くなっており、昌の後を継いだ子の発(後の武王)が、諸侯の支持を得て、殷の紂王に対する放伐革命に決起する直前であった。そこで伯夷叔斉の兄弟は、西伯発の馬の前に立ち塞がり、紂王にどのような暴虐や非行があっても臣下たるものは、これに背いて謀反を行ってはならず、あくまで君主を諫めることに徹するべきだと説得する。徳目としては「忠」を貫くことをよしとしたということになる。が、当時の事情を言えば、世論はすでに紂王の上にはなく、諸侯はこぞって西伯を立てて殷王朝を倒そうという勢いにあった。中国の歴史の中では、前王朝の天命が尽きれば、これに代わる者の上に天命が下って命が革まる(革命)ことになっており、発にしてみれば、伯夷叔斉の言は、タイミングを失した無用の止め立てとうつったかもしれない。
発は諸侯を率いて殷王朝を倒し、周王朝の武王として中華に君臨することになった。伯夷叔斉の兄弟は、周(西伯の支配域ではなく、中華一帯)の粟米を食うことを潔しとせず、(比喩として周に仕えなかったということではなく、ほんとうに志の汚れた周で耕作されたものは口に入れないことにしたらしい)、首陽山というところにこもって、自生する蕨を採取して暮らしたが、やがて餓死した。
彼らが餓死する直前に作ったとされる「采薇の歌」(蕨をとる歌)が残っている。紙数の関係で全て採録できないが、「暴ヲ以テ暴ニ易ヘソノ非ヲ知ラズ」と痛烈に武王の革命を批判している。
司馬遷は、史記の冒頭にこの伯夷叔斉の物語を掲げ、「天道是か非か」、つまり中華民族が尊ぶ徳目を墨守したこの兄弟を置き去りにして、殷から周へと流れゆく歴史の大河(天道)が、果たして是であったのか、否であったのかを問い、以て自著「史記」全体のメインテーマとしている。
2022年11月1日