以前「歴史認識」という題で、日本のアジアにおける侵略や戦争について、日本人が第一次世界大戦後の国際法秩序しか問題にしないのに対して、中国、韓国の人々は日清戦争やさらには江華島事件などに遡って問題にしているということを書いた。
日本の言い分は、第一次世界大戦までは、よかれあしかれ帝国主義の時代。植民地保有も国際法に照らして合法だったというものだ。が、植民地にされた、あるいは侵略された側の言い分は、そもそも近代の初めから西洋諸国がアジアやアフリカの諸国を支配してきた歴史そのものが「まちがい」なのだし、西洋諸国の尻馬に乗って似たような振る舞いをした後進の近代国家日本などは、もっと「けしからん」ということになる。
その「けしからん」という思いの中には微妙に華夷秩序意識というものが働いている。
ところが、近代西洋諸国が、アジアを侵すようになると、小国日本は勇躍華夷秩序を脱し,アジア諸国の中でいち早く近代化を遂げた。東夷の国と思われていた日本は、いつの間にか西洋諸国を模倣するようになり、ついには近代化された軍隊を以て韓国を支配下に治め、中国にも筒先を向けるようになった。未だ近代に目覚めきれなかった、19世紀末期の中国、韓国の人々は、日本を夷狄と見下している内に、華夷秩序を破壊されて立場が逆転し、今度は近代化した日本という存在に脅かされるようになってしまった。
日本も、中国も、韓国も19世紀西洋列強のアジア進出に脅かされた。それらの国の青年達は、皆、自らも近代国家とならねば、独立を保てぬ事を思った。だが、どこまで自らを近代化するか、どの程度西洋に近くなるかについて、同じ国の中でも、一人一人の思いは異なるものがあった。最も異議の少なかったのは、軍事技術の近代化である。軍艦、鉄砲、近代的軍隊がなければ侵略されてしまう。だが、その軍事技術さえ、刀槍や拳法で代替できると称える者も居た。経済の仕組みの近代化には強い反発があった。工業化、資本主義化とは新たな支配と被支配の関係をつくることであったし、農村的秩序や服装、生活から学問、芸術に至る東アジア的文化の破壊につながるものでもあった。さらに政治における近代化は最も異議が多かった。自由、平等、博愛、議会制民主主義は東アジアの伝統に馴染みにくかったし、第一、西洋の理想主義的政治思想も、西洋人の野獣のような振る舞いの前では説得力に乏しかった。アジアの青年達は、この200年ほどの間、なんとか西洋的近代主義に対置しうるアジア的価値観を模索しようとした。が、結局その試みはあまり成功せずに終わったと言えるのではないか。~この項続く。