セレブは、英語のcelebrityの略。高名とか、名声という訳がある一方で、有名人、名士という意味で使われることもある。有名人の場合の複数形は、celebritiesとなる。
さて、日本でセレブというのは、どういう人たちのことなのだろうか。
本誌1月号が取り上げている秋川滝美という若い作家の著作に、「いい加減な夜食」シリーズというのがある。主人公の佳乃という女の子が原島財閥総裁原島俊紀というイケメンのセレブの独身男性の屋敷に掃除のアルバイトで入って、偶々作った夜食のリゾットが気に入られて、夜食係に採用され、次第に気に入られて、秘書となり、妻となり、母となりという料理ものシンデレラストーリーである。主人公の佳乃はとてもチャーミングに描かれており、女の子の内面も、この作家らしいリアリティをもってよく分析されている佳作なのだが、欠点を上げるとすれば主人公の相手役原島俊紀のセレブぶりがなんとも嘘くさい。
原島俊紀は都心の広大な屋敷に、バトラーとシェフなど少数の家事スタッフと共に住んでいて、その屋敷では、折々園遊会みたいなものが開かれ、同じくセレブの方々が訪れて舞踏に興じたりなさるというのだが、今日そんなことをしているセレブ家族があるとすればもはや絶滅危惧種である。そもそも「原島財閥総裁」なる設定自体が、今の日本では存在しない設定である。日本の三井、三菱、住友などの旧財閥は、マッカーサーの指令で「解体」されてしまい、今日、三井、岩崎、住友といった姓を持つ家族は、実在しそれなりに裕福には暮らしているが、韓国のヒュンダイやサムスンのごとく経済的な実体としての企業を所有してはいないし、旧財閥系企業を支配する権力も持っていない。現在日本の大企業支配者は、殆どの場合サラリーマン社会を勝ち上がった高級勤め人に過ぎないし、株式の所有者は圧倒的に個人より法人の機関投資家である。
以下、日本のセレブの変遷について、この稿の筆者の知る所若干を記しておきたい。
明治から戦前に至る帝国時代の日本には華族というセレブの正統が存在した。約千家族くらいが法律上の身分として、爵位を持っていた。華族の中身は、江戸時代までの公卿と大名、維新の元勲の子孫、そして爵位の低い方は明治以後の官吏や軍人で功績のあった者の子孫が多い。現在なお、日本の庶民一般が持っているセレブイメージ(都心の広大な屋敷、舞踏会、狭い範囲の通婚、皇室との近さなど)はこの旧華族の文化に由来する所が多い。次いでは旧財閥、資本家の類。この稿の筆者が入社したごく普通の大企業でも、戦前役員の給料は一般労働者の百倍の桁、給与袋の封筒が縦に立ったと言われていた。この種のセレブも財閥解体でほぼ絶滅した。戦後企業の実権は、受験戦争を勝ち抜き社内競争で出世した一代学卒のエリートに移ったが、この人々は富裕とは言ってもセレブと言えるほどではなく、財力を持っていたのはむしろ都市近郊の土地持ちの方であった。
21世紀に入ると又ヘゲモニーの交代があって、現在人も羨むセレブリティは、外資系金融機関に勤めるディラーの類かホリエモン型のベンチャーの成功者である。この人々の習俗は、専用ジェット機、企業買収などアメリカのエリートの真似である。が、文化の深みにはやや欠けるような気がする。