特定宗教の儀式の是非を論じるのは本欄にはふさわしくないかもしれないが、以下はこの稿の筆者の実体験に基づくもので、なんら脚色せずに述べることをご容赦願いたい。
筆者の両親は、敬虔なカトリックのキリスト教信者であった。もう少し詳しく書くと、両親は敗戦後の日本で、人生の価値のよりどころを求め、自らの意志で洗礼を受けて信者となり、教会で知り合って結婚し、程なく筆者が誕生したのである。彼らは生まれたばかりの筆者にも、当然ながら幼児洗礼を施した(カトリックの教義によれば洗礼を受けないまま夭折すると、その子は天国に行けないのだそうだ)。その後も筆者が進学するごとに学校の連絡簿に、「家庭の教育方針」は「カトリック教義に基づき・・云々」とか書かれてあった。小学校の中頃からは家の近くの教会で毎週行われる「公教要理」とかいう一種の宗教教育の塾みたいなものに通わされた。なにせ、絵に描いたような敬虔な信者の家の子であるから、教会に通う子供達の中でも筆者はエリートで、初聖体拝領だとか、堅信の礼だとかもとびきり早くにクリアし、教会の期待する若きホープの一人であったのだ。
だが、そのような宗教教育が、本当には筆者の身についたものではなかったことが、やがて判明する。小学校も高学年に進むにつれて、筆者の心の中に、むくむくとカトリックの教えに対する疑問や反発が頭をもたげてきたのである。わけても困ったのが「告解」(今日のカトリック用語では「赦しの秘蹟」、一般の日本語では懺悔~これも仏教では「さんげ」、キリスト教では「ざんげ」というらしい)という名の奇妙な儀式である。 これは毎週一回、教会堂の中に設置された木製のボックスの中に入り込んで、己れが犯した「罪」を告白させられる、と、いう儀式なのである。ボックスの中は真ん中で仕切られていて、仕切り壁に小さな窓が付いている。仕切りの向こう側には神父さん(誰が入っているかわからないことになっているが、地域の教会の神父なんてものは一人か二人しか居ないから、誰かは直ぐに分かってしまう)が居て、筆者の「テストの悪い点を親に隠しました」とか「親の言いつけに背いて遅くまで起きていました」みたいな他愛のない「罪」の告白を聴いてくれることになっている。そしてだいたいはちょっと神父さんのお説教があった後で、「めでたし聖寵満ち充てるマリア」とか「天にまします我らが父よ」とかいう短いお祈りを、罪の程度に応じて量刑のごとく何回か唱えると、無事「神様はお赦しくださいました」ということになって、無罪放免という訳なのである。
しかし、翌週例えば「今週は何も罪を犯しませんでした」とか告白したりすると、「君はなんと傲慢なのか(人間だもの、罪を犯していないわけがない)」と、軽罪を犯したときの何倍も叱られてしまうのだ。しかし十歳くらいの子供がそうそう罪など犯すわけがないし、傲慢とか言われると、開き直って「では罪とは何か、例示せよ」と神父さんに議論をふっかけたくなる。そのときは、たしか向こうは「モーゼの十戒」かなにかを持ち出してきたのだと思うが、だいたい姦淫とか殺人とかいう罪は大人が犯すものであって、子供がそうそう犯すわけはないのだ。
そこで私は、しばらくはつじつま合わせに犯してもいない軽罪をでっち上げて告白してきたのだが、そのうち告解という制度がある故に嘘をつくという方がよほど罪深いと悟り、次第に教会そのものに行かなくなってしまった。「心の罪をうちあけて更けゆく夜の月すみぬ」(i)という歌の文句があるが、宗教で言う罪とは、刑法のように細かい定義があるわけではなく、いわば「心のやましさ」である。
告解、懺悔で神仏に赦しを乞い、心が安らぐのは大人になってからの話なのではないか。
(i) サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌、「長崎の鐘」