今は昔、ハンニバルのカルタゴを破り、地中海世界に覇を唱えたローマは、カエサル、オクタヴィアヌス(アウグストゥス)の時代を経て、やがて西はスペイン、北はスコットランド、南はアフリカ北部、東は中近東に至る大帝国を建設した。
このローマ帝国の属領統治を可能にしたものは、ローマ人の土木技術、就中ローマ街道の建設であった。ローマ街道は、軍の移動、物資の移動を容易にしただけではなく、帝国の隅々の官吏達とローマ皇帝との通信・コミュニケーションを可能にした。このローマ街道がつなぐ、情報の力こそが帝国統治の力の源泉であった。更に言えば、これらの情報の交換はもちろんラテン語でなされた。ラテン語は政府の公用語であったばかりでなく、帝国領内の様々な言葉を話す人々の共通の言語となった。ローマ国内でも教養ある人々は古典ギリシア語とギリシア人達がかつて紡ぎ出した思想や哲学を学んだが、ローマ帝国内の人々にとって、世界共通語とは、ラテン語のことであった。
さて、現代のことである。
第二次世界大戦に勝利し、次いでソビエト・ロシアとの冷戦の勝者となったアメリカは、インターネットという情報の道を建設し、アメリカ人の話す言葉は世界の共通語となった。インターネットは現代のローマ街道、英語は現代のラテン語と言われる所以である。たとえば、この稿の筆者は、韓国の人々と話す時に、英語を用いる。第二次世界大戦前の日本の韓国統治と、それによって傷ついた韓国の人々のプライドを思い出させることなしに、目前のテーマを話そうとするには、英語が最も適当な言語だからである。が、その時の英語は日韓双方とも「英米文化を背景とした、ちゃんとした英語」ではなく、「世界共通語としての通じる英語」である。
時間的な順序を言えば、まず技術が発明され、それが人々の折々のニーズに合致すると世の中に普及し、技術が世に普及するとそれを上手に使いこなすために、社会制度、ものの考え方、見方(思想や価値観)が変わり、さらには、社会の担い手が変わると、その新しい担い手によって、新しい文化や芸術が生まれるのである。
ところでEFEPI2018という世界統計によると、我が国の英語力ランキングは88カ国中49位で、極東アジア(日本、韓国、中国、台湾)の中では最低の順位である。このまま情報ネットワーク技術が進み、世界が一層インターネットでつながるようになると、この日本人の英語の貧しさでは、世界の国々の人に伍して、コミュニケーションしていけなくなるのは必定である。我々は、古代ローマ帝国で言えば「ラテン語の出来ないフェニキア人」みたいな存在になってしまうだろう。
我々がそうなってしまった理由は、日本全国の中学、高校に約6万人いる英語の教師達が、「世界共通語としての通じる英語」を顧みずに、「英米文化を背景とした、ちゃんとした英語」を生徒達に教えようとしたためだと、筆者は思う。我が国英語教育はこれまで、読み、書き偏重であったとよく言われるが、その理由も教員達自身の英会話能力が低いからではなく、「ちゃんとした英語を追求する」あまりのことだと思いたい。文部科学省は、2020年から、大学の入学試験に、英検、TOEFLE、IELTSなどの民間英語検定試験を導入しようとしているが、各種のへ理屈を付けてこれに反対しているのは、これまでの「ちゃんとした英語追求」を墨守したい一部の英語教員達である。
だが、英語はまず「世界共通語としての通じる英語」でよい。現代の英語教員達には、「ローマ街道を旅することが出来る程度のラテン語」を教えることを目標としてほしい。