先ず、江戸時代の中頃くらいまで、布というものは今よりはるかに貴重品であったことを書きたい。現代に住む私たちのように、毎年ユニクロあたりで新品の服を買って着るなどという贅沢は許されず、庶民は概ね古着屋で買った二、三着の服で一年を過ごしたようだ。それでも江戸時代になってからは、絹や木綿の布を着物に使う習慣が普及したが、それ以前は着物に用いる布は主として麻であった。その麻の時代に人々はどのような下着を用いていたのか、ということに興味があって、いろいろ調べてみたのだが、どうも正確な知識を提供してくれるサイトが見つからない。以下は、この稿の筆者の想像も交えて、おそらくこうであっただろうという記事と受け取っていただきたい。
絹や木綿が普及する江戸時代まで、日本では明確に下着と言えるものはなかった。男性について言えば、長めの麻の布を腰の周りにぐるぐる巻きにして、それ一枚でパンツとズボンの両方の役割を果たした。女性について言えば、都会では一種の腰巻布を用いる場合もあったが、田舎ではそもそも上衣と下衣の区別はなく、かつ陰部を隠す、あるいは陰部を守るような布の存在はなかったと考えてよいのではないか。男女いずれも「ノーパン」がスタンダードな習俗であったようだ。
さて、木綿の普及と共に、男性では六尺褌、女性では腰巻布という明確に下着の概念を持ったものが用いられるようになった。このうち、六尺褌について言えば、普及の始まりが江戸時代初期、全国の小中学校で用いられなくなったのが東京オリンピック後の1960年代と、首尾が比較的はっきりしている。日本文化の中で、ちょうどこの時期と一致するものに「武士道」というものがあって、この稿の筆者の頭の中では、六尺褌はなんとなく武士道の象徴のような位置を占めている。もちろん六尺褌の用途は武士に限らず広いものがあって、現在でもお祭りの神輿担ぎの折などには、六尺をキリリと締めた若い衆の姿を見ることが出来るし、一部私立学校の海浜学校や海辺の漁師さんなど海にかかわる人が、安全(溺れたときに船の上から救助しやすい、あるいは鱶避け)のために六尺褌を着用することは今日でも行われている。一方、明治の終わり頃徴兵制の日本陸軍の支給品としてより簡易な越中褌(三尺ほどの晒し布の片辺に紐がついているだけの褌)が採用されたことから、六尺褌に有力なライバルが生まれることとなった。たしかに軍服というものは洋装であるから、袴の中で嵩張る六尺褌よりも、ズボンの下でハンドリングが簡便な越中褌の方がより便利であったのであろう。「緊褌一番」を尊ぶ武士道精神の象徴が六尺褌であったとすれば、越中褌は徴兵制下の国民軍の象徴であったということも出来るのではないか。
次に、女性の腰巻について稿を遷したい。腰巻も、はじめは下着ではなく、夏季に上半身部分を省略し下半身部分のみを紐で腰に巻いた衣装であった。が、後に肌に直接触れる布である「湯文字」も、腰巻の類とされるようになった。1932年12月日本橋白木屋において歳末商戦のさなかに火災が発生し、従業員など14名が犠牲となった。その後の記者会見で白木屋幹部が、犠牲者が多く出たのは女性従業員が、下着として腰巻しか身につけておらず、上階から飛び降りるのを躊躇したためではないかとして、今後はズロース着用を推奨すると述べたことから、ズロース、パンティなど洋式の下着を和装の下に着けることが普及したらしい。が、犠牲者は飛び降りることを躊躇したのではなく、煙に追われて窓から飛び降り、犠牲となったのが真実のようである。白木屋が洋式下着普及のために、上記のような伝説を広めたとするうがった見方もある。
今月の言葉
2025年2月28日
褌と腰巻
