以前本欄で「名古屋の嫁入り」と題して、昭和50年代の名古屋市民の結婚に対する考え方、派手な披露宴と「しーっかりと大きい」引き出物、嫁入り道具の移動が重要な意味を持つこと、「在所」の婿自慢等を書いた。今月はその続編として、名古屋の隣、岐阜の町で実際にあった披露宴の事例について、この稿の筆者が経験したことを書く。時代は同じく昭和50年代、筆者が二十代半ば頃の話である。
H君とKさんは共にこの稿の筆者が大学で所属していた放送のクラブの後輩である。二人は、クラブ内恋愛で、ちょっとしたドラマを経て卒業一年後くらいにぶじ結婚の運びとなった。H君の出身は石川県、たしか能登半島の奥の方ではなかったかと思う。Kさんは岐阜の町中の高校を出て東京の大学に進学した。K家ではおそらくK嬢の結婚に備えてそれなりの資金を貯蓄していたのであろう。K嬢をH君に嫁がせることに異議はないが、披露宴が能登半島の奥で開催されて、岐阜の人々に見せられないのは困ると考えたのであろう。両家協議の結果披露宴は岐阜市内の有名な料亭で開催、H家の親戚一同は、当日朝能登をバスで出発し、岐阜市に繰り込むことで話がついた。(後から考えると、このバスの車中ですでに祝杯を挙げる親戚もいたのだと思う)
さて、披露宴の司会者はと言うと、当時名古屋に在住していたこの稿の筆者が務めることとなり、週末に二度ほど、会場となる岐阜の料亭に通って、万端打ち合わせることとなった。まずちょっとした小競り合いがあったのは、会場側の司会マニュアルという台本のようなものがあり、披露宴冒頭「本日は席次万端整いませず、ご不満の向きもあろうかとは存じますが、めでたい席に免じて・・」と言えと書いてある。それを省略しようとしたところ、会場側が目を三角にして「この台詞だけは、必ず言っていただかないと困ります」と言うのだ。新婦K嬢の口添えもあって渋々了承したものの、心中では「なんでこんなアリバイ工作みたいな台詞を・・」と不満であった。
司会者冒頭の辞は結局「新郎新婦が所属しておりました放送研究会のアナウンス読本に“暖かくなる花曇りの午後”という言葉がございます。そんな言葉がふさわしい今日昭和○年○月○日、ただいまより、H家、K家結婚披露の宴を開催致します。本日は席次・・」というものになり、続いて媒酌人による新郎新婦紹介、主賓の祝辞、乾杯の挨拶と滞りなく進み、けっこうたくさんの来賓の挨拶が新郎側、新婦側交互に行われて、新婦一時退席となる。その前後だったか、新婦の日本舞踊のお師匠さんがひとさしお祝いの舞いを舞われ、その答礼に新婦がまた舞うという儀式があった。
さて圧巻は、新婦お色直し入場である。この料亭では新婦が歩いて入場するのではなく、モクモクとドライアイスの白煙がたなびく中を、お色直しを終えた新婦が舞台中央にせり上がってくる仕掛け。そのせり上がりの間舞台の袖には左右三人ずつの料亭従業員がゴム仕掛けの紙の鳩を持って控えており、司会者が小声で「鳩!」と合図すると、鳩が一斉に新婦を祝して舞台に羽ばたくのであった。ケーキカットの後は、能登と岐阜の余興合戦。手許の台本ではとっくに披露宴は終わっているはずなのに、とくに能登勢からは次々と追加余興の申し出があり、H君のご近所の皆様の「オハコ」を全部歌っていただかないと「このままでは、能登に帰せない」と幹事役が仰るものだから、もうどうとでもなれと次々と放歌高吟を紹介し、ようやく新郎新婦の両親へのお礼言上、両家代表挨拶、お開きとなったのは開始後3時間20分。筆者の披露宴司会最長時間記録であった。
今月の言葉
2023年6月30日