最近、「日本はグローバル人材を育成しなければいけない」、ということがよく言われる。
直訳すれば「地球的人材」。なんだか分かったようで、分からない言葉だ。要すれば、日本人でありながら、国際社会に通用する人材と言うことなのだろう。
そういう人材が必要だと言われるからには、逆に言えば、今の日本には、国際社会に通用し、我が国の政治的、経済的立場を海外にもの申すことが出来る人が、いかにも少ないと言うことなのだろう。然らば、グローバル人材とは如何なる人なのか。昨年出された、政府の「グローバル人材育成会議」中間報告なるものを覗いてみよう。 (注1)
要素Ⅰ:語学力・コミュニケーション能力 要素Ⅱ:主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感 要素Ⅲ:異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー このほか、「グローバル人材」に限らずこれからの社会の中核を支える人材に共通して求められる資質としては、幅広い教養と深い専門性、課題発見・解決能力、チームワークと(異質な者の集団をまとめる)リーダーシップ、公共性・倫理観、メディア・リテラシー等を挙げることができる。 |
なるほど。このような人材は、日本広しといえども、それ程たくさんはいないはずだ。
が、今頃どうして?と考えてみるのは無駄ではあるまい。今頃こんな人材を育成しなければならない、などとお偉方が言い出したのには、理由がある。一言で言えば、日本が世界の中で「影が薄く」なってしまったのだ。「存在感が薄れた」くらいではない、「尊敬されなくなった」でもまだ足りない。「無視されるようになった」くらいが今日の現実にあっている。それも、何か日本に瑕疵があって無視されるようになったのではない。
世界の人々が日本の存在に「気がつかなくなって」しまったのだ。
バブル期以前、ヨーロッパでも、アメリカでも歩いているアジア人は半数以上日本人であった。今日では、韓国人や中国人の天下であって、日本人はたまに見かける程度である。日本と先進諸国の貿易がなくなってしまった訳ではない。が、製品をたくさん買ってくれるお客は中国人、インド人。資源や労働を安く買える国は、多数の途上国であってもまず日本ではない。
それより何より、「日本ったら何にも言わない国なんだもん」になってしまったのである。
この稿の筆者は、年に何回か、同じテーマの国際会議に出席している。が、その席で、筆者よりも英語の出来るはずの同僚日本人達が発言するのを耳に出来る機会は、極めて僅かである。耳に英語は聞こえても、彼らの態度はひたすら「情報収集」。たまに筆者が発言を求めて挙手するのを、珍しい動物をみるように眺めているだけ。列席の中国人、インド人が下手くそな英語でまくし立てるのに比べて、温和しいというか、静かというか・・これは、ただ単に英語力の問題ではない。満座の中で、その席共通の価値観にもとづいて、自己の利害を説くことが出来るか否かの問題なのである。今から人材など育成しても、世界が日本の存在を思い出すのに何年かかるだろうか。
(注1)
首相官邸ホームページ/グローバル人材育成推進会議/中間まとめ
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/global/110622chukan_matome.pdf