お役立ち情報
COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
絞り込み:
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自己目的化
麻雀という遊びが廃れて、もはや四半世紀近くになるだろうか。我が国がバブルの頂点に向けて、まっしぐらに高度成長の道を突っ走っていた時分には、世の中の会社員は、この暇つぶしゲームに滅相もないお金を賭けて楽しんでいた。最近では、四人面子がそろわないとできないような遊び事は流行らない。現代の若者は、専らゲーム機に向かって一人で格闘しているし、賭け事の好きなオジサンやオバサンだって、近頃はパチンコという一人遊びにこそ熱中するが、丁半賭博、チンチロリン、ブリッジ、花札、麻雀と何人かの仲間でやるようなアナログゲームはみんな廃れつつある。
さて、麻雀好きの読者ならよくおわかりと思うが、麻雀の下手な人の代表選手は「手作りにこだわる」人である。麻雀を知らない方のために少し解説すると、麻雀というゲームには、色々な「役」という配牌の組み合わせがあって、それらの役のどれかを完成して早く上がった人が一局の勝利者となる。ついでに言えば、誰かが勝利者となるためには「振込み」といって、自分が捨てた牌が勝利者の「役」を最終的に完成させる敗者がいる。つまり四人の内一人が勝利者となると大概は一人が敗者となる仕組みである。敗者は勝者に「役」相応の点棒を差し出すことになっている。それを、八局とか十六局とか繰り返して、総合点を競うゲームである。「役」には、有名な大三元(白牌が三個、発牌が三個、中牌が三個そろったもの)とか、緑一色といって手許の十四牌が全部緑色で他の色が混じっていないもの、字一色(東南西北白発中の各牌が二個宛そろったもの)などがある。が、此処に書いた「役」は皆とても珍しいもので、上がれる確率はそれほど高くない。相当麻雀好きな人でも、(インチキしなければ)一生に何回か上がれる程度である。
では、「手作りにこだわる」人とはどんな人か。開始時に配られた牌を眺めて、こうした希少な「役」ができそうに思えると、高得点かつ上がるのが困難な「大役」を作り込むことにひたすら専念し、もっと早く上がれそうな安直な「役」を顧みない。周囲の競争者がどんな「役」で上がろうとしているかなども全く見えなくなる。その結果、高価な「大役」がもう少しで完成するというときになって、自分が捨てた牌が他人の当たり牌(「役」を完成させる牌)となって「振込み」、敗者となってしまうのである。
「手作りにこだわる」人は麻雀に負けても実は何とも思わない。ゲームに勝つことより、生涯一度の「大役」をつくったという快感を追求するのである。実はこの稿の筆者もその一人で、失う金より、得られたかもしれない夢の方がはるかに魅力に思える。だが考えてもみよう。人類は、生殖という行為を自己目的化して「恋愛」文化を生み出し、生命維持のためにエサを口に入れる行為を自己目的化し「グルメ」探求文化を生み出したのだ。
麻雀の下手な者とは、思い適わぬ女性を求め続けて子孫を残せない男とか、究極の美味を求めてフグに当たる男のような者ではないか。人類が他の動物と違うところを持つとすれば、それは自己目的化による文化の形成である。「手作りにこだわる」ような人こそ、人類の名誉をもっともよく担っているとは言えないだろうか。
2015年10月1日
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愚者の自由 賢者の自由
小学校高学年の子供がいて、親に問う。「なぜ勉強しなければいけないの」
この年頃になると、いろいろ遊びの誘惑も多い。戸外で思い切り球を蹴りたい。自転車に乗って遠くの街まで出かけてみたい。パスモを使って買い食いをしてみたい等。
一方、都会であれば、中学受験をするかどうかはともかく、学校の他に塾に行く子は多いし、高学年になれば学校の宿題だって馬鹿にならない量が出る。子供にしてみれば、楽しい盛りを、なぜに勉強しなければならないのか。それも、他の子供となぜ競争して勝たなければならないのか、大いに疑問であろう。この時期に勉強した子としなかった子は、大人になってどう違うのか。勉強すると大人になってどういう良いことがあるのか。
少し昔、貧しい日本が戦後復興を遂げて高度成長に向かう頃までは、その答えは単純明快、かつ実利的なものであった。世の中は学歴社会であって、良い学校に行って、良い企業や官庁に入った者が、世の中の支配者になる。給料も高いし、生活も安定している。だめな学校に行って、だめな就職をした者は一生うだつが上がらない。貧しい暮らしをして、生活も不安定だ。同じ企業の中でも、大卒と高卒、偏差値の高い有名大学と、低い駅弁大学の卒業生では露骨な待遇差別がある。「だから勉強して少しでも良い学校に入らないと、将来良い暮らしが出来ない」という大人の理屈には何の疑問もなかった。
今日、高度成長後の成熟期に入った日本では、単純にそうばかりは言えない事情もある。
まず、幸か不幸か世界水準で見れば、日本は貧しくなくなった。ホームレスになっても、賞味期限切れのコンビニ弁当を食べて生きていける国など、世界を見渡してもそうはない。学歴差別は依然あるが、良い学校を出て、良い企業に就職したはずの社会人が、30歳になる前に1/4程も離職してしまう。理由は色々だが、要約すれば「何かが違う」と感じたからだそうだ。良い暮らしより「自分のやりたいこと」が大切な時代になってきた。それでも、この稿の筆者は、以下のようなことは言えるのではないかと思う。
世の人々は、皆「自由になりたい」とは思う。が、その自由には愚者の自由と、賢者の自由がある。愚者の自由とは、自儘、自堕落に時間を過ごし、働かずにぜいたくな暮らしをする自由である。親が金持ちとか、宝くじに当たるとか例外はあるが、大半の愚者は自由を追求しても、働かずにぜいたくな暮らしを得ることはできない。世の中そう甘くはないからだ。一方賢者の自由とは、志を持って、世の中でそれを成し遂げる自由である。社会をこうしていきたい、こんなものを創造したい、世界の舞台でこんなことをしてみたい等が志である。夢と言っても良い。夢を実現しようとすると、時には孤立して誰からも認められない時や、自分だけの能力ではどうしても成し遂げられず、他者を動かさなければならない時が必ず来る。その時に自らの支えとなるものこそ、知性、学問であると思うのだ。だから、志ある者は、知性や学問を身につけ、気品ある賢者とならなければならない。小さい頃の勉強は、未来における愚者の自由と賢者の自由を分かつ。「自分のやりたいこと」即ち志を遂げて、そのことで得られる地位・名誉や良い暮らしは、結果に過ぎない。
2015年9月1日
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味噌汁
朝、目が覚めると、もう嫁さんは台所に立っていて、まな板に包丁をあてるトントンという心地よい音がしている。きっとなにか味噌汁の実にする野菜でも刻んでいるのだろう。鍋にはまだ味噌を溶いていない汁がかかっていて鰹だしのよい香りがしている。やがて、ふっくらとした熱々の白いご飯が炊けてきて、新鮮な生卵と鰺の干物、白菜の浅漬けかなんかが、朝の御膳にそろうと、「あなたご飯よ」という声がする。その間に私は顔を洗い、歯を磨いて食卓につく。と、間髪を入れずに、具沢山の熱い味噌汁がよそわれて、小盆に載せて給仕され・・・これは、昭和の男である筆者の妄想である。
実際の所は、この稿の筆者の家庭では朝は紅茶とトーストしか出てこないし、夜の味噌汁は、甘ったるい麦味噌に豆腐とワカメが定番で、野菜が具に入ることは稀である。この味噌汁に馴らされた我が家の子供達にとっては、きっとこれがオフクロの味となるのだろうと思うと、何かほろ苦い気もする。それとも、我が家の子等も、将来は遠い土地の女性を娶って、毎晩なれない味の味噌汁を供されるようになるのだろうか。
筆者は別段西国の麦味噌や岡崎八丁味噌が嫌いという訳ではない。が、他所の土地の特産の味噌を日々食卓で定番に食するのは辛いものがある。といって筆者は東京山の手の生まれで、自分の土地の味噌というものがある訳ではなく、まあ、信州でも東北でも、赤過ぎず白過ぎず、中間的な色をした米の味噌なら、大概は不服を言わないのではあるが・・
さて、味噌汁(東京の丁寧言葉では「おみおつけ」ともいう)の三要素は、ダシと具と味噌である。
今月は、この小さな日本列島で、それらが如何に多様であるかという話を書きたい。
まず、ダシ(出汁)について言うと、削り節(主に鰹節だが、土地によって鯖節や鮭節などもある)、いりこ、煮干しなどの動物系と、昆布、椎茸など植物系がある。昭和の御代も半ばまでは、庶民の家庭ではカタクチイワシの煮干しの人気が高く、冷や飯に残った味噌汁を掛けて出がらしの煮干しを載せたものは、「ポチ飯」と称して、アルマイトのお椀に入れて、その家の番犬に供されたものである。その時代削り節の作成は子供達の仕事で、木の箱に鉋の逆さまになった奴がついているのに鰹節を上下させて削って箱に溜め、あとで箱の横っちょの抽出から取り出したりしたものである。
後に、花鰹と言って工場で削った鰹を袋に入れて売るようになってから、鰹節は煮干しを凌ぐようになった気がする。その後出汁の素が顆粒化したのはご高承のとおり。
具については、講釈を垂れると紙数が尽きるので、列挙する。野菜では、葱、玉葱、茗荷、ほうれん草、小松菜、大根、にんじん、牛蒡、蓮根、ジャガイモ、里芋、薩摩芋、南瓜、隠元、もやし、蕪、芹、三つ葉、貝割れ、土地によってはアスパラガスや唐黍。海藻で、ワカメ、海苔、ひじき。加工食品では、豆腐、油揚、厚揚、湯葉、蒟蒻、納豆、焼麩、素麺。キノコ類では椎茸、榎茸、エリンギ、シメジ、なめこ等。動物蛋白では、豚肉、鮭、鰤、鰯のつみれ、浅蜊、蜆、魚のアラ、カマ、鶏卵。
最後に、味噌各種。土地の名前で言うとこれも紙数が尽きるので、材料で言うと、米味噌、麦味噌、豆味噌が主なところ。麦味噌は主に九州、豆味噌は三河、尾張の中部地方で造られる。この項の筆者は、昔名古屋に勤務していて寮暮らし。寮母さんに、独身寮は他国者の集まりなので、お願いだから朝食に赤ダシだけは出さないでくれと泣訴したことがある。
2015年8月1日
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イヌ(続)
先月号掲載、犬族の会議の続きである。
「議長、ここに社団法人秋田犬保存協会という人間の団体が定めた秋田犬の標準があります」
「オスは体高約65~70cm、体重40~60㎏、メスは体高約60~65cm、体重30~50㎏。ちなみにJKC(ジャパンケンネルクラブ)理想体高はオスで約64~70cm、メスで約58~64cmとなっています」
「審査会での減点項目というのもあります。秋田犬として好ましからざる毛色。体色に副わぬ虹彩著しく淡きものなんてのがそうです。失格項目もあります。先天的に耳立たざるもの。先天的に尾巻かざるものなどです」「誰が勝手にこんなことを決めたんだ」
「つまり人間は、純粋な秋田犬を自分たちで勝手につくろうとしている」「そうなの。だから違う種類の犬が通婚して出来た子を雑種なんて呼ぶのよ」「自分たちは違う民族同士で子供を作ってハーフは美しいなんて言うのに」「そうよ、彼らが言う雑種の犬にも美しい子はたくさんいるわ」
「諸君、まず我々は雑種という言葉を拒否しようではないか」「じゃあなんて言うんだ」「決まっているじゃあないか。多様性というんだ」「そうか、多様性か。Diversityだね」
「待て、待て、我が輩は必ずしも純粋主義が悪いこととは思わない。純粋のドーベルマンとか、純粋の柴犬というものは誇りを持って良いことだと思うぞ」
「それは、あんたが純粋の誇りとかを持つのは勝手さ。だが、その純粋の基準って何だ、みんな人間がつくったものじゃあないか」「そうだそうだ」
「人間が水鳥狩りをしたいから、コッカースパニエルをつくった、耳が池に浮かぶようにしてね」
「人間が狩りで穴熊の細い穴に入れないからダックスフントをつくった」「そのために俺たちダックス種はいつも腰を悪くする不安を抱えていなければならない」「近親婚の弊害かもしれない」
「つまり純粋犬種というものは自然に生まれたものではなくて、奴ら人間の都合でつくられたものなんだ」「うーむ、そう考えてくるとだんだん腹が立ってくる。奴らの都合に合わないイヌはみんな雑種にされてしまうってことなんだな」「その通り!」
「みなさん、私たち犬族は、自分の都合で生まれてきた多様な犬達の権利を認めようではありませんか」「人間の都合で生まれた純粋種も、多様な純粋種間の婚姻で生まれた子も、みんなイヌとして平等です」「そうだ!」
「では、決議案を」
「我々犬族は、人間がつくる純粋種の犬の基準を拒否し、あらゆる犬は平等であることをここに宣言する。今後犬の種類によらず通婚することを認め、出来た子供はすべて多様性の子と呼ぶことにする。純粋種とか雑種とかいう差別は今後一切認めない!」「そーだっ」
「私たちは、人間によるイヌの品種改良という言葉を今後認めない。犬の品種は、犬の自然な通婚によってのみ発展する」「そしてすべての犬は崇高な狼の子孫であり、人間の家畜ではないことを宣言する」「人間と犬との関係は今後一切対等でなければならない」
「自由、平等、博愛万歳!多様性万歳!」と、いうことになりましたとさ。
2015年7月1日
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イヌ
以下は犬族の会話である。
「諸君、動物界にあって我々犬族くらい、人類と親しくしてきた者はいない。しかし人類の使う言語を分析してみると、犬の出てくる言葉は、殆ど皆侮蔑と差別に満ちているように思える」「そーだ、そーだ」「議長、どこが侮蔑と差別なのか例を挙げていただきたい」「まず、会社のイヌとか権力のイヌという言葉がそうだ。イヌは上位に盲従するという偏見がある」「犬も歩けば棒に当たるって言葉もそうだ。イヌでも、というところが差別だ」「そーだ」「犬死に、なんて言葉もあるぞ。犬が死ぬのはまったく無意味だと人間は思っている」「夫婦けんかは犬も食わない」「あたりまえだ、そんなものが食べられるか」「犬に論語、猫に小判、豚に真珠、馬の耳に念仏、みんな人間の動物に対する差別であるぞ」「犬の川端歩きという言葉を知っているか」「いや、聞いたことがない」「どんなに歩きまわっても収穫がないこと、あるいは金を持たずに店をひやかすことと人間の辞書に書いてある」「差別だ、偏見だ」「そーだ!」「人間の辞書には、犬の糞とは汚いもの、軽蔑すべきものの意味だとはっきり書いてある」「なんだ、人間の糞はきれいで尊敬すべきだというのか」
「そういう訳で、人間は動物界で永年友好関係にある犬族を、心の中では、実は軽んじていることが判明した」「この際我ら犬族としては、人類との関係を見直すべきではないか」「そーだとも。彼らが軽んじる犬にもプライドがあることを示さなければならない」
「では、具体的にはどのような行動をとったらよいか、これから話し合うことにしたい」
「議長ちょっと待ってください」「なんだ」「人類とひと口で言うけれど、犬にとっても良い人間と悪い人間がいると思うのよ」「うん、うちの婆さんなんか私のことを人間の孫以上に可愛がってくれるし、私のことをちっとも軽蔑なんてしてないと思う」「でも、君はこのあいだ寒いときに人間の着物みたいなコートを着せられて散歩していたじゃないか」「それを人間の善意の押しつけと思わないのか」「あら、あのコートちょっとお洒落だったし暖かくてよかったのよ」「犬としての自覚とプライドはどこにあるんだ」「そーだ。犬はまず人間の着物を拒否すべし」「古い話だが、ディズニーとかいう米人がつくったワンワン物語では、首輪こそ由緒正しい犬の証で、首輪のないのは野良犬だと差別されている」「そーだ。首輪も拒否すべし」「起て!飢えたる犬よ、革命の日は近い!」「あら、私飢えてなんかいないわよ、ドッグフードでヘルシーに暮らしているし」「俺は、人間との友好関係を続けながら、人間側に辛抱強く、犬族の言い分を理解させていくのがよいと思う。いますぐ人類と対立状態に入るのは犬族にとっても不利だ」「そういうのを日和見主義と言うんだ」「待て、日和を見るのが何故悪いんだ」「悪いさ」「どうして」「ウー」「ワン」「キャン」「ガブ」
「諸君、内輪もめで暴力はいけませんぞ」「ガルル」「静まれ」「グルル、ウー」
「議長、当面の行動方針として、人間のつくった純粋犬種の標準を認めないというのはどうでしょうか」「それって何」「秋田犬の背の高さは何センチ以上とか言う基準です」「そんなの知らなかった」・・とかとか犬族の会話はまだ続くようだ。
2015年6月1日
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景気・続
昨年11月号に書いた景気の話の続きである。
世論調査の項目に「あなたが重要と思う政策課題」というのがある。最近調査をすると、だいたい「景気」は「増税・減税」「年金」「福祉」より上位に来る。税金、年金、福祉サービスなどは憲法、外交や国防と違って自分の財布に直接響く。もっとも身近な問題である。だが、それより「景気」の方が大切な課題であるらしい。それはなぜか。
景気が悪くなると、国民の雇用そのものが脅かされるからである。勤務先が倒産して、失業する。倒産しなくても、企業のrestructure(日本では「リストラ」とか言っているが、訳せば再編成とか再構成という意味である)が行われて自分が解雇される。もちろん社会で生業を営む全員が職を失うわけではないが、何割かの確率で職を失うということになれば、国民の不安は、増税や年金減の比ではない。要するに景気が悪化すると「食えなくなる」ことの恐怖が目の前にやってくるのだ。
そこで、国民世論に押されて、政府は景気対策を行う。政府が国債を発行し、なんらかの公共事業を行い「金が回るように仕向ける」。すると、実際に雇用はなんとか確保され、失業者はとりあえず減少する。だが、前回書いたように、雇用は確保されても、最近では景気対策に費やしたほどには税収が返ってはこないので、結局政府の借金(国債残高)は増え続ける。
昔から、景気は循環するものだと言われてきた。景気のよいときは税収も増えるので、景気の悪いときにちょっと「景気づけ」に公共事業をやっても、その分は後の税収増で取り返せるはずだったのだ。だが、それは高度経済成長、右肩上がりの時代のお話。
今日では、景気循環という要因を差し引いて、客観的に経済の先行きを見ても、明るい材料はない。その理由の一つは人口の減少。もう一つは社会の成熟。
人口減少について言えば、食品、飲料、衣料などの産業では「食べる口」「着る身体」が減るのだから、売上数量は落ちる。しかも最近では市場競争が自由化されて、単価も安くなりつつある。社会の成熟について言えば、自動車、家電、建築などの産業では、製品の品質が向上して、ライフサイクルが伸びる傾向にある。もちろん、一部の情報家電のように、新しいアプリケーションが次々生まれて、製品が壊れないうちに「陳腐化」するような例外もあるが、概ね捨てるにはもったいないような製品が増えている。
少ない人口で、高品質の製品を長期間使って生きる、それは素晴らしいライフスタイルである。地球環境にもやさしい。他国を侵略するような攻撃性もない。だが、それでは「金が回らない」「職場が減ってしまう」という問題をどうするのか、だけが残る。
理想論を言えば、全国民が労働時間を短縮し、職場とポストの数を確保しながら、低収入に甘んじて生きるという解もあるかもしれない。だが、そのためには、おそらく市場競争による優者の選択という資本主義の根本原理に、メスを入れなければならない。資本主義のパラダイムを超えるためには、産業革命並みの技術の革新が必要なのだが。
2015年5月1日
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虹を追いかけて
この稿の筆者が、あるビール会社の宣伝マンをしていた頃、ライトビールの新製品のCMに、朗々たるトランペットの吹奏を用いた。制作スタッフによれば、そのメロディはショパンの幻想即興曲から採ったもので、ポピュラーソングとなり「虹を追いかけて」とかいう題名がついているとか。
それから四半世紀が過ぎ、最近ショパンの幻想即興曲を耳にしたことが契機で、ふとそのことを思い出し、「あれはどんな楽曲であったか」と、おぼろげな記憶をたどってみることにした。
最近の世の中は、大変便利にできていて、インターネットの「教えてgoo」に質問を投げたところ、しばらくして回答の投稿があった。曲名は Im always chasing rainbows。その回答から、You Tubeにたどり着き、サミー・デービスJr、ジュディー・ガーランド、ペリー・コモ、ジェーン・オリヴァー、フランク・シナトラなど多数のアメリカの歌手がこれを歌っているのを知ることができた。
さらに、CMに使用したときはトランペットの吹奏だったので知ることができなかった歌詞が、とてもすてきなものであることを知った。ジェーン・オリヴァーのYou Tube動画には、英語の歌詞も掲載されているので、それを見ながら、この曲を聴いて思わず涙してしまった。
歌詞は、ひと言で言えば、アメリカンドリームに敗れた者の言葉である。「私はいつも漂う雲の彼方の虹を追いかけてきた。私の企てはいつでも空の夢と消え、他者は栄光をつかんだが、私の手元には何も残らなかった。でも信じてほしい、私がいつも幸せの青い小鳥にいつか出会うことを求めて、虹を追いかけていることを」というような詞で、失敗と挫折を繰り返しながらも、毅然と夢を追い続ける姿が、大戦間時代のアメリカ人の底知れない楽観主義を、よく表現している。
この楽曲は、1918年のミュージカルコメディOh, Look!のために書かれたものだそうだが、残念ながらそのミュージカルまでは、調べきれなかった。後にジュディー・ガーランド(同じく虹をテーマにしたSomeday over the rainbow-オズの魔法使い、1939年MGM-で有名になった)が、ミュージカルZiegfeld Girl(1941年、邦名「美人劇場」)の中で歌っている。
我は唯虹を追うなり 漂える雲の彼方に 企てはみな夢のごと 大空の中に果て行く
輝ける陽を浴むは誰ぞ 我が逢ふは降る雨の日ぞ
栄冠を戴くは誰ぞ 我が得るにたつきとてなし
信じてよ 我は唯虹を追うなり 幸せの青き小鳥と めぐり逢ふその日を待ちつ
我は唯虹を追うなり 幸せの青き小鳥と いたずらに逢ふ日を待ちつ
(筆者拙訳)2015年4月1日
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苛む人
道を歩いていても、あるいは同僚や親族でもよいのだが、「あ、この人は苛む人だな」とわかるような人がいる。苛む人は、眉をしかめてせかせかと歩く。身体から不快な気配が立ち昇っている。
漢字の「苛」の字源は「摩擦を起し、ひりひりするからい草」だそうだ。
訓読みでは、苛む、苛つく、苛めるなどということになる。
さいなむ、というのは、責め苛むとも言い、相手のちょっとした瑕疵を言挙げして、言葉や場合によっては暴力も用いて相手を執拗に攻撃することである。攻撃は烈しいばかりではなく、ねちねちと時間も長いことが特徴である。多くの場合、攻撃する相手は自分よりも弱いことが多い(後述するように、苛む人にとって相手は誰でもよいのだが、強い者だと反撃されるので、自分より弱い者を選択する)。時には、苛む人の機嫌が一度直って、忘れた頃に、また以前の理由で相手を責め苛む場合もある。妻が夫の昔の浮気を思い出して苛む場合などがこれに当たる。
苛む人は、いらいらしている。その理由は、身体の不調、自らの境遇への不満、人間関係のこじれ、家庭の不和等様々であろうけれど、不満があり、いらいらしている。その不満を解消するために、他者を苛むのである。だから、苛むとは、平たい言葉で言えば「八つ当たり」の場合が殆どである。八つ当たりの場合、自分の苛立ちをぶつける相手は手近の誰でもよい。不幸なことに、自分が苛々して他者に八つ当たりをすると、人間関係はますますこじれ、家庭はもっと不和になり、境遇は悪化し、身体は不調になる。つまり事態は悪化するのである。これを称して負のスパイラルという。
苛む人は自らの八つ当たりによってドツボに陥っていく。苛立ちは、せわしない。熟語で「苛波」とは、せかせかとした小刻みな波のことだそうだ。
苛む人は、苛める人である。いじめるは、虐めるとも書く。イジメは、弱い立場の者を虐待することである。「苛虐」とは、人を手ひどく扱う様。「苛酷」とは「ひどすぎる」だけではなく容赦なく無慈悲でむごい様をいう。「苛辣」とは、いらいらして、辛辣な様。「苛烈」とは、厳しく烈しい様。だから、苛がつく言葉は、他者に厳しく当たる様を言うのである。
イジメの本質は、他者を責めることによって自己の苛立ちを解消することにある。だから、虐められる者に本質的な理由があるわけではない。世間ではよく「いじめられっ子にもそれなりの理由がある」という人がいるが、この稿の筆者は同意できない。それはせいぜい、八つ当たりされやすい弱い立場の人、という程度のことをいうに過ぎない。
他者に厳しく、上から弱い立場の者を虐げる代表選手は権力者である。故に、「苛斂誅求」とは弱い人民から厳しく税を取り立てることなどをいう。「苛税」、「苛政」などという言葉もある。「苛察」とは細かい点に立ち入って厳しく詮索することだそうだから、これも権力由来の熟語であろう。
「苛」はからくて、ひりひりする、尖った所のある草だそうだ。棘があり、角がある。「苛高数珠」というのは芝居に出てくる荒法師などが持っている、算盤玉のように平たくごつごつした数珠玉を太い紐でくくったものだ。苛性ソーダ(水酸化ナトリウム=NaOH)や苛性カリ(水酸化カリウム=KOH)に用いる「苛性」というのは、動植物の組織などに強い腐食性があることだから、これらの物質は自然界の「いじめっ子」と言えるのかもしれない。
2015年3月1日
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発見
"America was discovered by Columbus."という有名な英語の例文がある。英語の受動態の例として、中学生の頃習った方も多いに違いない。 だが、アメリカ大陸がコロンブスによって「発見された」というのは、果たして「世界の常識」だろうか。コロンブス以前にアメリカ大陸に住んでいた人間にとっては、アメリカ大陸を「発見」したのは、生まれたそのときであっただろう。原住民ではなくとも、コロンブス以前にアメリカ大陸を見たことのある漁民、漂流民、海賊等はヨーロッパ側にも、アジア側にも多数存在したと思われる。
では、何故コロンブスのアメリカ発見だけが、世界史上の大発見であるのか。それは、コロンブスの船団が「国家」の事業としてスペイン国王のスポンサードの下で航海し、アメリカに至ったからなのである。実際に、彼がアメリカ大陸に至ったのは、日本では室町時代の終わり頃のことである。この頃のヨーロッパ人の「国家」の認識は、近代国民国家というのとは若干異なるが、ともあれ、人間の住む「未開の」大地が、ヨーロッパ国家のプロジェクトによって「発見された」のである。以後、「未開の」大地には欧州諸国家の移民が押しかけ、先住民を理由なく殺戮し、奪った土地に旗を立ててコロニーを建設した。
「国家が」「他の国のものではない土地を」「発見して」「旗を立てた」ら、その領土は旗を立てた国家のものとなる。現在に至るまで、この国際法の「発見」原則は、(明確には)変わっていない。英領のフォークランド諸島(アルゼンチンとの間に領有権の争いがあった)、日本の小笠原諸島などは、皆この原則を領有権の根拠としている。
一方で、かつて合法とされたアメリカのハワイ併合、日本の琉球処分など、武力にモノを言わせ、恫喝とも言える手段で、国家の領土を「他の独立国に」拡張することは、今日の国際法規では認められていない。また、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、日本、中国、ロシアなどの一部に住む先住民達は、2007年の国連宣言でその権利がかろうじて認められた。が、それらの先住民が元から住んでいた広大な領土は、(ハワイや沖縄も含め)既成事実として他者のモノとなってしまっている。実際問題として、アメリカに住んでいる欧州系の白人、北海道のヤマト系日本人、オセアニアの英国系白人などに、今更「先祖の国に戻れ」とは言えないという事情があるからである。その「今更」を狙って、戦争で占領したパレスチナに植民を続けるイスラエルのような国もある。さて、我が国は中国との間で尖閣諸島、韓国との間で竹島、ロシアとの間で南千島四島の領有権を巡って主張が対立している。これらを巡る日本の主張の根拠は、「発見して旗を立てる」ルールにある。要約すれば「先に旗を立てた国家は日本だ」というのが日本の主張である。一方で、近代というものが始まってからその恩恵をほとんど受けず、他から侵され続けてきた中国や韓国の人達は、第二次世界大戦後の国際秩序が、国際法の「発見」原則を変えたと理解しているところがある。はたして、国際法の原則はどこまで変わったのか。それを試すには、国際司法裁判所でこれら領土問題の決着を図るしかない。
2015年2月1日
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歴史認識
この欄で敢えて「従軍慰安婦の真相」とか「南京大虐殺で犠牲者は何万人か何十万人か」を書こうというわけではない。が、この頃中国や韓国の人々は、我が国の要路者の歴史認識がまちがっていると言っている。一方我が国では、隣の国が頻りと日本にケチをつけて、あわよくば我が国固有の領土を侵したり、経済的利益を要求したりすることの理由にしているくらいにしか感じていない。だが、隣国の人々と誤解なくつきあっていくためには、先方が歴史の何を問題にしていて、(一部の)日本人の認識のどこが不足していると感じているのかを考えなければならない。それを要すれば「第二次世界大戦後の世界の常識は何か」を、考えるということになる。
この稿の筆者は、日本が第二次世界大戦に参戦せざるを得なくなり、敗れて国を焦土と化し、有史来初めて他国に占領される憂き目を見た理由は、第一次世界大戦後の世界秩序について、我が国の理解が不足していたからだと考えている。第一次世界大戦の前の世界は、弱肉強食の帝国主義の時代であった。世界各国とその国民は、戦争を含む生存競争によって侵し合い、強き者は弱き者を支配して植民地とすることが公に認められていた。が、第一次世界大戦の惨禍があまりに大きかったために、その後国際連盟という(不十分ながら)世界政府的な調整機構と四カ国条約、九カ国条約、ケロッグ・ブリアン(不戦)条約などの国際条約・法秩序によって国際紛争の解決は平和的手段によるべきとされ、武力による現状変更は否定された。その一方で、戦勝国による植民地支配や国内の人種差別は撤廃されることはなかった。(近衛文麿はこのような世界秩序に不満を持って、この頃「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表している)
その後の日本による、満州事変、日中戦争から太平洋戦争に至る一連の行動は、(仮に「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」なるものが日本による新たな植民地支配の拡大ではなく、欧米諸国のアジアにおける植民地を解放する試みとしての側面を持っていたとしても)明らかに「武力による現状変更」の試みであり、国際法秩序に違反する行為と見做されたのである。(東京裁判と言えば、昨今の日本では、戦勝国による勝手な日本いじめであるとの論調が強いが、裁判の訴因が九カ国条約や不戦条約違反であることは意外に知られていない)
さて、日本が敗れ去った後、皮肉なことに日本の表向きの戦争目的であった「アジア諸民族の解放」は実現された。韓国や中国は、欧米諸国の支配からではなく、日本の武力による支配から解放された。一方日本は、「武力による現状変更」の誤りを認めて「国際紛争解決の手段としての戦争を永久に放棄する」憲法を掲げて国際社会に復帰した。
にもかかわらず、今になって歴史認識のどこが食い違っているのか。ひとつは、未だに我が国の一部に第一次世界大戦後の世界秩序を武力で変更しようとした日本の行いを、正当化したい人々がいるからであるし、もうひとつは中国、韓国の一部に、「第一次世界大戦後」で線を引かず、世界の近代史と近代的な国際法秩序そのものを否定したい人々がいるからではないか。
2015年1月1日
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御入場
この稿の筆者の友人に、結婚式場専属の披露宴司会者(英語ではmaster of ceremony=MCという)を職業にしている女性がいる。その人と話していたとき気づいたこと・・
まず、下記の文の内、日本語として正しく、且つ披露宴の場に相応しい言葉はどれか。
1. 新郎新婦が御入場されます
2. 新郎新婦が入場されます
3. 新郎新婦が御入場なさいます
4. 新郎新婦が御入場いたします
5. 新郎新婦が入場いたします
正解は、5である。1は、日本語として間違いである。「切符をお切りする」「お客が御来店する」「貴方のご希望される色を選べます」等は全て誤り。「切符を切る」「お客様が来店される」「貴方のご希望の色を選べます」が正しい。以前本欄でも書いたことなので理由は省略する。
2と3は日本語としては正しい。4も形式的には文法違反ではない(「私がご案内いたします」は正しい例)。では、なぜこれらが文法的には正しくても、披露宴に相応しくないのか。
要は、披露宴の主催者は誰か、へりくだるのは誰で、敬語を使って持ち上げるべきなのは誰なのか、という問題なのである。
我が国では、結婚披露宴の主催者は、かつてはだいたい新郎新婦の属する家であった。
案内状の文言には、「この度○○(新郎父)の長男×太郎と△△(新婦父)の三女×子の婚儀が整い・・つきましてはささやかな小宴を催し・・」とか書いてあった。最近では、結婚する新郎新婦自身が披露宴の主催である場合もある。が、披露するのは新郎新婦側で、披露されるのはお客様であることにかわりはない。
友人主催によるパーティーの場合もあるが、この場合でも新郎新婦はお客様ではない。
よって、結婚パーティーにおいては、司会者というのは主催者の僕(しもべ)であるのだから、敬語を使って持ち上げるべきなのはお客様であり、へりくだって表現すべきなのは主催者側(新郎新婦もふくめて)であるという公式が成り立つ。故に正解は5なのである。
従って、お開きの挨拶も、「両家を代表いたしまして、新郎父○○より一言皆様にご挨拶を申し上げます」となる。
一方で、招かれたお客の側には、自分をへりくだってご両家ならびに新郎新婦を持ち上げる敬語、丁寧語使いが求められる。「この度は、ご新郎×太郎君、ご新婦×子さん、そしてご両家の皆様、まことにおめでとうございます」「只今お二人の御入場になりましたお姿を拝見いたしまして・・」などという言葉の使い方をする。
この稿の筆者が問うたところでは、友人の女性は概ね3を用いているようだ。これは彼女が会場従業員であることに由来するらしい。披露宴会場にとっては、主催者はお金を払ってくれるお客様。だが、司会者は、主催者の代理人である。断然3は間違っている。
2014年12月1日
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景気
イギリスの経済学者ジョン・メナード・ケインズが、有名な「雇用・利子及び貨幣の一般理論」を発表したのは、1935年(昭和10年)。ウォール街の株価暴落に端を発した大恐慌から5年余が過ぎた頃のことだ。ケインズ理論の説くところを簡単に言えば、「公共事業への財政出動により有効需要が創出され、雇用が確保され景気が上向き、経済が成長方向に循環するようになる」というもの。このケインズ理論が、アメリカのニューディール政策によって実証され、第二次世界大戦後、各国の財政運営において採用されるようになったのは、よく知られている。
ケインズが言うには、この「有効需要創出のための財政出動」、平たい言葉で言えば「景気対策」の手段は何でもよい。公共工事であっても、戦争であっても、減税であっても、或いは「砂漠での金鉱発掘」のような無駄使いでも何でもよい。この理論に拠って、先進資本主義各国は、景気対策と国内の雇用確保のために、国債を発行しては、多かれ少なかれ「無駄遣い」にふけってきた。
但し、この理論の盲点は、「経済が成長方向に循環する」ことが国家の税収に結びつくとは限らないという点にある。ケインズの説くのは、あくまでも経済全体の話であって、個別政府の収支の話ではない。経済成長のある段階までは、たとえば道や橋など社会インフラの整備は、市場の活動を活性化させ、経済規模拡大の成果は法人税、所得税、消費税などの増収となって政府にも還元された。だから政府が借金を負ってインフラ投資を行えば、やがて税収によってその借金をとり返すことができたのである。
だが、経済成長がある段階を超えると、「無駄遣い」による景気浮揚が、税収に結びつかなくなる。この稿の筆者は経済学者ではないが、直観的には「ある段階」とは、およそ国家の人口が減少に転ずる段階なのではないかと思う。人口減少により社会が老化を始めると、消費は減少し、景気は自然に下降傾向となる。老化は、労働人口の減少と消費人口の増加をもたらす。社会保険料や税の負担者と社会保障の受益者の比率が逆転する。また、社会インフラをいくら整備したところで、経済活動の活性化には結びつかなくなる。(誰も通らない田舎に高速道路を作っても、一時の雇用が発生するだけで、道が出来てしまえば維持コストばかりが嵩む)政府がいくら浮揚策をとっても、トレンドが下降傾向なのだから、政府の努力は報われることが少ない。つまりは、景気対策のためにいくら財政出動をしても、政府の借金ばかりが増えて、借金を返す見通しが立たない仕儀となる。
今の日本はまさにそういう状態にある。では、どうすればよいのか。
困難だが、いくつかの解決策はある。ひとつは、制がん剤や代替エネルギーのように他国が買いたくなるような技術の研究開発に投資することである。一山当てれば回収できる。
もう一つは、アメリカのように「移民受入国」となる。海外から、日本の居心地の良さを求めてくる移民によって、成長と税収を支える道である。但し、元からの居住者にとって移民との共存は必ずしも居心地がよいとは限らないのが、この案の欠点であるのだが。
2014年11月1日