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COLUMN
クラブATO会報誌でおなじみの読み物
「今月の言葉」が満を持してホームページに登場!
日本語の美しさや、漢字の奥深い意味に驚いたり、
その時々の時勢を分析していたりと、
中々興味深くお読み頂けることと思います。
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洋館散歩
たとえば貴方が、自営業を子供に譲った、会社を定年で退職した、子供が就職して地方に赴任した等々の理由で、いくらか暇になったとする。
もちろん、第二、第三の人生を求めて、儲からなくてもよいからなにかのお仕事に就く、と言うのもひとつの考え方だろう。が、もう一方で悠々自適、これまでの人生で忙しくて出来なかったことを、身体が元気な内にしてみる、という考え方もあってもよい。
しかし、悠々自適も初めのうちは良いが、読書にしても映画や芝居を見るにしても、グルメツアーにしても、そうそうひとつのことは続かない。これまでの人生が忙しい人ほど、やりたかったこと、できなかったことが意外にも少ないことに気づくはずだ。
そんな時は、他人様のお勧めに素直に耳を傾け、これまで思ってもいなかったことをしてみる機会を探して、気持を若く、挑戦してみることをお勧めしたい。
と、言うわけで、今月のお勧めは、洋館散歩。東京都内にある明治、大正、昭和の歴史的建造物を見物する散歩である。
まずは、東京駅。(辰野金吾設計、1914年12月竣工)丸の内の駅舎そのものが2012年10月に建築時の姿に復元されて、公開された。とくに正面から見た南北のドームは、東京大空襲で焼け落ちて以来、仮屋根がかかっていたのが、元の姿に戻った。この稿の筆者などは終戦後の生まれなので、元の姿を写真でしか知らなかったが、なるほどドームを復元してみれば、仮屋根よりはよほど駅舎のたたずまいにあっているように思える。駅舎はもちろん電車の乗り降りに使われているが、ほかに駅舎内の東京ステーションホテルでお茶を飲み(ほんとうは、夜にバーでカクテルを飲むのがお勧め)東京ステーションホテルギャラリーを見てから帰るのもよい。
東京駅を丸の内の方角に出ると、三菱一号館の赤煉瓦建築(ジョサイア・コンドル設計1894年竣工)が、近代的なビルに張り付いている。これは2010年にレプリカとして復元されたものだが、かなり精緻に昔のたたずまいを残し、内部は美術館として運営されている。その昔丸の内一帯は、三菱の赤煉瓦街として有名であった。そのよすがを偲ぶ建物は、このレプリカ一棟になってしまっている。東京駅を八重洲側にくぐり抜け、少し歩くと、丸の内駅舎と同じ辰野金吾設計の日本銀行本館の旧館(1896年竣工)がある。内部は残念ながら日本銀行の業務に使われていて一般人は入れないが、外から見ても堂々たる洋館だし、少し上から見ると建物が円の形をしているという説もある。向かいには貨幣博物館があって、古今東西の貨幣や紙幣を見ることが出来る。
以上の洋館は、いわば業務用のビルディングであるが、やや小規模な邸宅風の洋館三箇所を紹介しておく。いずれもお金を払うか客になれば入ることが出来る。JR駒込駅より旧古河邸庭園内の大谷美術館
(ジョサイア・コンドル設計1917年竣工)。大江戸線赤羽橋駅より綱島三井倶楽部
(ジョサイア・コンドル設計1913年竣工)。JR目黒駅より東京都庭園美術館本館
(アンリ・ラパン内装設計1933年竣工)。2017年10月1日
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リットン報告書
今から86年前の9月18日、当時の満州(現在の中国東北地方)奉天(現在の瀋陽市)城外の柳条湖という所で、日本の管理下にある南満州鉄道の路線が爆破された。後に判明することだが、この爆破事件は、当時の日本陸軍の関東軍が仕組んだ謀略であった。爆破事件を、満州を支配していた張学良政権(当時中華民国国民政府に帰属していた)の仕業と断定した関東軍は、張学良軍を攻撃、瞬くうちに奉天以下の満州主要部を占領、張学良軍を満州から駆逐して、翌年3月1日には満州建国を宣言、中華民国から同地を分離独立させ、旧清朝の最後の皇帝であった溥儀を執政(後に皇帝)に擁立して、事実上日本の傀儡政権とした。
これは、外見的に見ても明白な日本の侵略行為であり、当時の国際連盟を主軸とする第一次世界大戦後の平和秩序に反する行為であった。満州を奪われた中華民国は当然国際連盟に、日本の不法を提訴し、ここに国際連盟の調査委員会が、英、米、仏、伊、独などによって構成される調査団(団長の英国人リットン伯爵の名を冠して「リットン調査団」と呼ばれている)を現地に派遣した。
リットン報告書は、この調査団が1932年10月2日に公表した、調査報告書である。その内容は、現代の視点から見ればかなりの程度に日本側に同情的なものであり、結論も、要約して言えば、「満州における中国の主権は認めるが、日本の特殊権益も認める」という、日本にとっては「名を捨てて実をとる」ことを要求するものであった。しかし、満州を占領してその地に居座り、すでに名目上とはいえ独立国家建設を始めていた日本の軍部は、この報告の内容を峻拒し、結局日本はリットン報告書の内容に基づいて中国の満州統治権を承認した国際連盟総会決議を拒否する形で、同年3月27日国際連盟を脱退した。
その後日本が国際社会で孤立を深め、敗戦への道をたどっていったことは周知のとおりである。
さて、話は変わるが、南シナ海における群礁に人工島を建設している中華人民共和国に対してフィリッピンが提訴した件について、2016年(去年)7月12日(国際)常設仲裁裁判所が下した判決と、その後の中国の対応を見て、筆者が思い出したのは、上記のリットン報告書である。
中国は、1899年の国際法に関するハーグ平和会議で設立された、権威ある国際仲裁機関の判決を頭から無視し、国際法秩序とは別の論理を立てて、南シナ海における中国の主権を主張している。中国国内で軍部と人民がこぞって国際法秩序に背を向ける自国の政策を支持し、政府の尻をたたいている構図も、満州事変当時の日本国内の世相とよく似ている。
戦争前の日本、現在の中国に共通しているのは、米欧など近代国民国家の先進諸国が主導する国際的な法秩序を無視している点にある。なぜならば、これら先進諸国は、近代の前半(19世紀末頃まで)において、みんな帝国主義的な侵略国であり、東アジアの後進諸国の主権を脅かしてきた存在だからである。彼らの過去を既成事実として認め、後進諸国がかつての先進諸国と同じことをしようとすれば国際平和の名の下に規制しようとする。それはフェアではないという思いがあるのだろう。だが、残念ながら、百年前、二百年前に許された行為は、今日の正義ではない。今日の国際平和のための法秩序は、二十世紀の戦争で流された無数の人々の血の上に成り立っているのである。フェアではなくても、従うしかないのではないか。
2017年9月1日
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ヤスクニ
八月なので、靖国神社の話である。だが、予め申し上げておくと、戦犯合祀だとか、公式参拝だとか、神道は宗教かといった、政治的な争いのある生々しい話題ではない。
靖国神社の起源は、文久二年十二月津和野藩士福羽美静らが、京都東山の霊山(りょうぜん)にまつり、翌年八坂神社境内に、ペリー来航以来の尊皇攘夷活動に倒れた志士たちを祀る祠を建てたことによる。
福羽美静という人は、津和野藩の下級藩士で国学を学び、京に上って「国事に奔走した」人のようである。祠の建立は、安政の大獄、桜田門外の変の僅か二、三年後。この人の志士歴のむしろ始まりの時期にあたる。この時期、幕府はまだ健在で、桜田門外の変後情勢はやや勤王方優勢に変化してはいたものの、志士殉難者の祠を建立することは、かなり周囲をはばかるようなことであったに違いない。
福羽の試みは、「招魂」という新しい概念を神道に導入する端緒ともなった。「天皇への武士的忠誠」を貫いて犠牲となったものへの慰霊と鎮魂こそが、「招魂」の本質である。さらに言えば、死者を神として祀ることを通じて、死者の霊力によって現在進んでいる反幕運動が有利に運ぶように祈る気持ちもあったのではないか。
福羽らの試みを契機として、明治維新直後早くも新政府は、ペリー来航(一八五三年)以来の国事で殉難した者の霊を京都東山にまつり、その後江戸城内において戊辰戦争で戦死した官軍将兵を慰霊する祭りを行った。そして明治二年函館戦役が終わるとすぐに、東京九段の地に「東京招魂社」(後の靖国神社)が建立され、第一回合祀祭が執り行なわれた。
以上のように、客観的に見れば、この頃まで靖国神社は、明治維新の一方の側の死者を祀る施設であった。その一方の側が勝利し、近代国民国家を建設する担い手となったために、その後、徴兵制を敷いた大日本帝国が行った戦争の(自国側の)死者を慰霊する機能を持つようになったのである。おそらく、靖国神社側の言い分としては、明治維新と明治維新後の戦争は一連なりの事象であり、祀られている「神」はいずれも「国家のために命を捧げた者」であるということなのだろう。
戦後の日本国が、戦前の大日本帝国との間に一定程度の「国家としての継続性」があることは、今日左右の勢力ともあまり異議はないはずである。現憲法は(原案をアメリカが作ったにせよ)帝国憲法を改正して成立しているのであるし、国家として継続していればこそ「前の戦争の責任」の在処が問われたりもするのであろう。
だが、今の日本が、はたして明治維新の一方のイデオロギーを継承しているのか、と言えば、それはかなり違和感がある。端的に言えば、尊皇攘夷が正しくて、佐幕開国が間違っているという価値観が現代に通用するかと言えば、もうそれははるか歴史の彼方の話なのではないか。ちなみに、この稿の筆者は旧幕臣の子孫である。筆者の思いとすれば、靖国神社は自分の属さない「もう一方の側」に偏した施設に見えてしまう。百五十年余の昔、血を流し合った双方ともが、近代国家の礎であったと考えたいのだが。
2017年8月1日
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飴の切り口
平成27年7月の歌舞伎座公演は、松竹創業120周年と銘打って興行されていた。その演目を少し覗いてみよう。
昼の部は、南総里見八犬伝で始まる。八犬伝は、滝沢馬琴作の長い、長~いお話であるが、歌舞伎座ではその内、「芳流園屋上の場」と「円塚山の場」の二幕だけをやる。昼の部二番目は、「死んだはずだよお富さん」で有名な(と、いってもこの歌が流行したのを知っておられる方はもう80歳に近いが)「与話情浮名横櫛」(「よわなさけうきなのよこぐし」と読む)。これも、「見初め」「源氏店」の二幕だけピックアップしての公演である。三番目は、蜘蛛絲梓弦(「くものいとあずさのゆみはり」)という狂言だが、これには「市川猿之助六変化相勤候」という付記があって、まあ狂言の筋よりは猿之助の六変化を楽しむレビュー的な要素が強いことがわかる。一方夜の部では、みなさんよくご存知の三遊亭円朝原作「怪談牡丹燈籠」を坂東玉三郎の演出で掛けるのだが、これにはわざわざ「通し狂言」という言葉が付記されている。つまり、歌舞伎の演目というのは、「通し狂言」で台本どおりやるのではなく、長いお芝居の中の、一幕、二幕をピックアップして公演するのが普通だということなのである。だから、わざわざ、「牡丹燈籠」では、「全部やります」という意味の「通し狂言」という断り書きが付いているのだ。
さて、今月は、なぜ歌舞伎の通し狂言が廃れて、一幕、二幕のピックアップ公演になっていったか、ということを考えてみたい。仮説は二つある。
第一の仮説は、もともと歌舞伎は出雲の阿国に始まったころから、役者の踊りや所作を見せるレビュー的な要素がつよく、芝居の筋に対するこだわりが少なかったから、というものだ。つまり、戯作者は、役者が一番映える「名場面」を創り出すのが商売で、「名場面」のために適当な筋をつければよく、そのためにずいぶん無理な筋(よくあるのは歴史上の有名人物が、なにかの庶民に身をやつし「庶民誰それ、実は誰某」という設定)をでっちあげても、お客に「名場面」さえ見せれば許された、ということなのではないか。そうすると冗長な無理筋を全部公演するのではなく、その「名場面」さえ演ずればお客は喜ぶのだから、ピックアップ公演でよいということになる。第二仮説は、この稿の筆者が「飴の切り口」説と呼ぶものである。まず、例を「助六由縁江戸桜」にとると、この話は遊郭の客助六、実は曽我の五郎(鎌倉時代の歴史上の人物)が吉原とおぼしき遊郭で暴れる話である。お客が見たいのは、吉原の風俗であり、その中での役者某の活躍である。が、江戸幕府は、その当時の吉原をそのまま描くようなナマで遊惰な芝居など許すはずはなかった。そこで戯作者が工夫をして、曽我兄弟の仇討ちという鎌倉時代の勧善懲悪話のなかに上手に吉原の場面を織り込んだということなのではないか。いわば、金太郎飴を外から見ると「鎌倉時代の勧善懲悪話」、ある部分だけを切り取るとその断面に「吉原遊郭風俗」が顕れるように、もともと創ってあるのが歌舞伎芝居なのではないだろうか。
2017年7月1日
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同一労働 同一賃金
前号では、最近非正規雇用の労働者が、社会の中で無視できない割合を占めてきて、その人たちがきわめて低い給与に甘んじていること、一方で、年功序列賃金、終身雇用制に守られた正社員もまだかなりの割合いて、不景気とは言ってもそれなりに安定した給与を得ていること。同じ職場の中で、同じ仕事をしているのに正規と非正規では、待遇に著しい差があり、そのことの矛盾が社会に大きな葛藤を生んでいることなどを述べた。
そこで、政府は唐突に「同一労働、同一賃金」制度を導入しようと言い出した。同じ職場で同じ仕事をしていれば、正規雇用か非正規雇用か、勤続年数が何年かを問わず、賃金を同じにしようという考えである。たしかに、世界を見渡せば、年功序列、勤続年数に応じて昇給していくような制度の国はあまりない。だいたいが、日本よりも非正規雇用の割合が高く、正社員であっても、何時解雇されるかわからないような国の方が多い。
しかし、ちょっと想像してみると、工業、とりわけ工場があるような業種では、まあ入社してからかなりの高齢になっていわゆる職長とか言うものにならない限り、職場の仕事はずっと同じ様なものである。新入社員の初任給は、少し上がるのかもしれないが、入社してから、自分の子供が社会人になるような年齢まで、ずっと同じ賃金というのは、理屈では正しいかもしれないが日本人の感情がついていかないのではないか。Xという職場が会社の都合で閉鎖されてYという職場に移ったら、給与が変わると言うのも、しっくりこない。さらに言えば、これからの日本は少子高齢化社会を迎えるわけだから、今、とってつけたように「同一労働、同一賃金」を導入しようというのは、高齢の正社員の昇給を抑えようとする陰謀なのではないかとすら思えてくる。
この稿の筆者の考えは、給与というものは職務給(今何の職務を担当しているか)、職能給(どのくらいの潜在的なスキルがあるか)、年齢給(勤続年数に依らず、家庭の事情にも依らず、ただ何歳か)の三本立てで、しかも原資は三等分するくらいがちょうど良いのではないかと思う。だが問題は、人件費をどのように配分したら良いかという賃金体系の話だけにはとどまらない。今の日本では、雇用と賃金を組み合わせた労働環境で見ると、ローリスク・ハイリターン、あるいはハイリスク・ローリターンが平然とまかり通っている。
正社員は高給を取るだけではなく将来の雇用保証がある。非正規労働者は、賃金が安いだけではなく、いつクビになるかわからない不安定な暮らしを続けなければならない。これでは社会正義の観点からみて、明かに不公正な身分格差と言わなければならない。
筆者は、大まかに年収4百万円未満の労働者は、終身雇用も住居の移動を伴う転勤を拒む自由も保障すべきだと思う。4百万円から8百万円くらいまでは一定の雇用の保証はあるが、出向転属等は拒めない。そして8百万円を超える者は全員、800万円超は4年、1000万円超は3年、1200万円超は2年くらいの契約社員にしてしまうのはどうだろうか。高給を食む者は、次の契約がもらえないかもしれないリスクに甘んじるべきなのではないか。
ハイリスク・ハイリターンの社会こそ「公正・公平」で自由な社会だと思うのである。
2017年6月1日
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終身雇用 年功序列
第二次世界大戦が始まる1940年頃、日本経済は従来の自由な資本主義経済から、当時の言葉で言う「統制経済」にシフトした。いわゆる「1940年体制」の始まりである。この経済体制は、資本主義の基盤を維持しながらも、その構造の上に計画経済、資本と経営の分離、社会福祉、貯蓄の奨励と資金の重要産業への傾斜配分といった社会主義的な要素を導入し、「国家総力戦」「総動員体制」を構築し、世界大戦への参加を準備しようとするものであった。だが、この統制経済体制は敗戦後も維持され、日本の戦後復興は、この資本主義と社会主義の混合経済によってなされた。
さて、戦後も続いた「1940年体制」の一つの大きな特徴が、終身雇用と年功序列である。 終身雇用制度とは、社会の大多数の労働力が、正社員としてどこかの企業に所属し、しかも定年までほぼ転職しないという制度である。この制度は、多くの労働者にとって生活安定と労働意欲喚起に役立ったが、一方でこのことが可能であったのは、国全体が高度経済成長を謳歌し、あらゆる企業が一定の成長を約束されていた故であって、1990年代バブル経済の崩壊を契機に、企業そのものが倒産や再編、あるいはそれほどではないにしてもリストラクチュア(「構造の再編」という意味だが実態は減員、首切りのこと)に直面すると、殆どの労働者が定年まで一つの企業に勤務するなどということは不可能となり、労働市場は悪い意味で流動化、自由化した。簡単に言えば、社会のかなりの割合の労働者が、非正規雇用、つまり「終身雇用の正社員」ではなくなったのである。
一方で、終身雇用制度と対になった日本特有の賃金制度が、年功序列型賃金である。この賃金制度は、概ね勤続年数に並行して賃金が等差級数的に増加していくというもので、職務給(役職手当)や職能給(上司による能力評価部分)はごく僅少、補助的な割合を占めるに過ぎなかった。労働者は入社すると、終身雇用制度の下で、能力の有無を問わず、毎年少しずつ昇級し、数年以内の差で管理職となり、子供が生まれて学校に行き家庭でお金がかかるのにほぼ並行して消費需要を満たす賃金を得られる仕組みとなっていた。この制度の末期には、役職定年と言って、定年前に数年ヒラに戻って賃金が少しだけ下がる制度に修正されたが、これとて親がその年齢になる頃には子供が独立しているだろうと考えれば、労働者にとってそれほど困る話ではない。
ところが昨今、社会で無視できない割合の労働者が非正規雇用となり、この人々の賃金が正社員に比較して著しく低く、昇給もしていかないという現象が起きてきた。このままでは、正規雇用と非正規雇用で、一種の階級差が生じ、国内に大きな葛藤が起きるのは必然である。しかも、実際には有能な非正規労働者が、低い賃金で、高給の正社員より優れた仕事をする例が多く見られる。そこで、世界の標準である「同一労働、同一賃金」制度を導入しようと政府が言い出した。しかし、約70年の間慣れ親しんできた「終身雇用、年功序列賃金」の常識から、企業も労働者も脱却するのは簡単なことではない。そこで、来月は、これからの時代の日本に相応しい、雇用・賃金制度について考えてみようと思う。
2017年5月1日
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Win Win
今年は、昨年の混乱に懲りて、就職活動の時期が少し早くなったらしい
本稿が世に出る頃には、リクルートスーツの若者たちも、内定、内々定に一喜一憂していることであろう。さて、就職面接に臨むときの求職者側の基本姿勢に関するお話しである。
この稿を書いている現在、筆者はひとりの中途入社希望者(青年だが妻子も既にある立派な大人である)を採用するかどうか、というプロセスにある。その人は、けっこう高学歴だったのだが、新卒の時にいわゆる大会社をしくじって、行き場がないというので、ある方に頼まれ、私が地方の有望なベンチャー企業に紹介した。数年その会社で働いて、けっこう優遇されもしたようだが、妻子を持ってしばらくして「その会社の経営方針があまりにもリスキーなので転職したい」と言って親族の関係するやはり地方のソフト会社に転職した。その際私に挨拶があったのは、辞表を出した後の話。今回は、「田舎のソフト会社では自分の将来が見えない」ので筆者の本業に就職したいという。以前と同じ依頼者を介しての話で、本人が応募書類に押印して持ってきたという訳ではない。完全な縁故採用のケースである。面接をしてみると、まあまあ仕事の方には適性がありそうなのだが、当方がカチンと来たのは、お礼のメールに「この度は、大変興味深いお誘いをいただき、ありがとうございました」と書いてあったこと。これでは、まるでこちらが有望な社員を採用するために、この青年をスカウトに行ったかのような文面ではないか。本人に悪気はないのかもしれないが、挨拶やお礼は、したから良いというものではない。挨拶の仕方や、お礼の言い方は、一つ間違えると、かえって事態をこじらせることになる。
この青年が、数年前、高学歴なのに大企業の面接に次々と落ちてしまったのは、どこかで自分の立場と相手の立場の関係をはき違えるところがあって、そのポイントを企業の人事担当者に鋭敏にかぎ分けられてしまったからではないだろうか。
上記は個別の事例だが、このことは就職面接時の求職者の姿勢に一般化できる。
志望理由を尋ねられて、「御社は○○の業績を上げられており、その前途は洋々たるものです」なんて答える者がいるが、このくらい相手を馬鹿にした話はない。御社の前途が洋々だから、私もそのおこぼれに与りたいと言うのだろうか。
志望理由の言い方はすべからく「御社は○○の業績を上げられており、私は××の力があるので○○のこの部分に貢献できると思います」であるべきだし、そんな力がないのなら、「私は○○に強い興味があるので、ぜひ○○のこの部分に貢献したいと思います」と言うべきだ。要するところ、この就職が実現することによって、企業もハッピー、私もハッピーというWin Winの関係がどうして成立するのかを論証する場が、就職面接なのだ。
初めの話に戻って、お礼メールの文面はどういう表現が適切だろうか。模範答案は「この度は私のわがままな就職志望にもかかわらず、面接をいただきありがとうございました。お話しいただきました仕事の内容には強く惹かれました。理由は・・」と、いうところか。
さて、筆者はこの青年を採用したものだろうか。
2017年4月1日
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軍艦の名前
大日本帝国海軍の軍艦名の話である。
この稿の筆者は、第二次世界大戦が終わってから七年ほどして生まれた。小学生の頃は、近所の男の子は、誰でも文房具屋や玩具屋でプラモデルを買ってきて作ったものだ。
筆者が初めて作ったのは戦艦「霧島」、その後が航空戦艦「日向」であったか。戦艦のプラモデルは、ゼロ戦や隼など飛行機に比べると値段が高かった。一ヶ月分のお小遣いより高かったのではないか。当時は、まだ巷間には白い衣服の傷痍軍人が溢れ、戦犯にならなかった提督や将軍たちも、町内のオジイサンという感じで身近に生き残っていた。要約して言えば、我々の世代は、大日本帝国海軍も陸軍も、現代のオタクな少年たちより遙かに身近に感じることが出来た世代なのだ。
その時代、筆者は第二次世界大戦期の連合艦隊の軍艦名を、殆ど全て暗記していた。(今でも、戦艦、重巡洋艦くらいは、ソラで言える)そして思ったことは、陸軍が何かと命名に「勇ましい」文字を付けたがるのに対して、海軍の軍艦名は、とても優しく美しいということであった。英語でも、船を指すときには、she、その船のという所有格にはherという文字を用いる。船は女性であり、船乗りの男たちが身を託す存在と言うことなのだろう。
さて、以上で結論を書いてしまったので、興味のない方は、この先はお読みいただかなくてかまわないのだが・・まず帝国海軍の軍艦名は「大日本帝國海軍艦艇の命名基準」(明治38年8月1日制定)~日露戦争の直後~以降体系的なルールに則っている。だから「三笠」だとか「朝日」だとかいう日本海海戦に登場する戦艦たちはこの基準に則っていない。
【戦艦】国の名前 大和、武蔵、長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向(他に巡洋戦艦と言って、巡洋艦から改装後格上げになったのが、金剛、榛名、比叡、霧島) 【重巡洋艦】山の名前 青葉、古鷹、加古、衣笠、妙高、足柄、羽黒、那智、鳥海、高雄、愛宕、摩耶(軽巡洋艦から備砲の規格変更で格上げになったのが、最上、三隈、鈴谷、熊野、利根、筑摩) 【軽巡洋艦】川の名前 球磨、多摩、北上、大井、木曾、長良、五十鈴、阿武隈、名取、由良、鬼怒、川内、神通、那珂、夕張、阿賀野、能代、矢作、酒匂、大淀 秀逸なのが【一等駆逐艦】天文事象(たくさんあるので代表的なところだけ) 吹雪、白雪、初雪、深雪、叢雲、東雲、薄雲、白雲、磯波、浦波、綾波、敷波、朝霧、夕霧、天霧、狭霧、朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電、陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風、秋雲、夕雲、巻雲、風雲、長波、巻波、高波、大波、清波、玉波、涼波、藤波、早波、浜波、沖波、岸波、朝霜、早霜、秋霜、清霜 【二等駆逐艦】木草 樅、榧、楡、栗、梨、竹、柿、栂、菊、葵、萩、薄、藤、蔦、葦、菱、蓮、菫、蓬、蕨、蓼 ~駆逐艦名を見ていると何だか俳句の歳時記を読むような思いがする。
空母、潜水母艦、海防艦なども佳名がたくさんあるが、紙数が尽きるので省略する。
最近、自衛隊の護衛艦(いずも、かが、いせ、ひゅうが、みょうこう、こんごう、はるな、きりしま等)の名前が旧海軍を踏襲していることに、近隣の国々から抗議の声が上がっていると聞く。が、上記の艦名の由来を見れば、命名の企図が平和なものであることは理解いただけるはずだ。
2017年3月1日
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クラクション
車のクラクションを、法律用語では、警音機と言うのだそうだ。まあ、平たく言えば「警笛」と和訳するのが妥当なところかもしれない。
クラクションは、自動車が自分に気づいてくれない他者(他の車でも、人間でも、動物でも)に自己の存在を気づかせるために音を発する道具である。相手が自分の存在に気づいてくれない場合に、危険が発生する時に鳴らすというのが、クラクションの正しい使い方である。
但し、見通しの悪いところで「警笛鳴らせ」の標識が設けられている箇所では必ずクラクションを鳴らさなければいけない。上記の通り、クラクション発声の本質は、「私に気づいて!」というアピールであるが、世の中には、危険発生の可能性以外にも「私に気づいて!」とアピールしたい者がいて、本来の目的を超えてクラクションを鳴らす場合がある。
一昔前の暴走族が、馬の嘶きのようなけたたましい音を鳴らして、街頭を行進したのは、まさに「私に気づいて!」の典型である。重量級のトラックが制限速度を超えて彼方から疾走してきて、こちらを見つけるなり「ブァー」とクラクションを鳴らすのは「どけ、どけ。俺様が通るぞ。」という意志の表明である。狭い路地の両方向から大きい車がやってきてすれ違えない場合、片方の車がクラクションを鳴らすのは「おまえが後ろに下がれ」という要求の意味である。上記三例は、いずれも威嚇の目的でクラクションを鳴らすのであって、自然界における野獣の咆哮に近い。北海道の山奥などでは、鹿や牛の群れが延々道路を渡る間、自動車は赤信号だと思って待つのがマナーであるが、時々事情を知らない都会者が、相手を動物だと侮って「早く渡れ」という意味の威嚇のクラクションを鳴らす。これは動物の群れを驚かして、暴れさせたりする大変危険な行為である。
それとは、正反対に、狭い交差点などで相手の車が道を譲ってくれたときに、こちらが警笛を鳴らすのは、威嚇ではなく「ありがとう!」というお礼の意味である。が、狭い交差点に面して建っている家屋の住人にとっては、常時この「ありがとう!」のクラクションに悩まされなければならないので、ほんとうは、「ありがとう!」のクラクションも礼譲に反する行いである。また最近、あるタレントが、クラクションを鳴らすと「あ、○○だ。○○が威張っている」とファンに思われるので、なるべくクラクションを使わないようにしている、とラジオで言っていた。これは「存在に気づかれたくないので、使わない」という意味で、サングラスをかけて町中を歩くような行為に似ている。いずれも危険な行為である。サングラスをかけて町を歩けば、物体は見えにくくなるし、日常クラクションを使わないように心がけていると、危険に遭遇しても咄嗟にクラクションに手が伸びない。
凡そ、日本の運転者には二種類の者が存在する。一方は、車に乗ると急に人格が変わり、威嚇のクラクションを鳴らし、(車の中だけだが)周囲の車を口汚く罵りながら運転する。
他方は、クラクションが必要な場合にも鳴らさず、できるだけ車の流れの中に埋没して、自分に気づかれたくないタイプである。だが、「相手に存在を気づかせる」「相手の存在に気づく」行為が威嚇や怯えにつながるような社会はどこかが間違っているのではないか。
2017年2月1日
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タンゴ その2
前回は、日本におけるタンゴの風俗史のようなことを漫然と書いたので、今月は、タンゴの音楽史を要約して書くことにする。
タンゴは、1870年頃アルゼンチンは、ブエノスアイレスの港町、「ラ・ボッカ」で生まれた。
タンゴは、(日本の演歌が西洋音楽と民謡との混交であるように)ヨーロッパのクラシック音楽と南米の民族音楽などの混交である。タンゴの父が西洋音楽とすれば、母はミロンガという、ラテンアメリカの田舎のカウボーイ(ガウチョという)の民謡である。延々とした語り、節回しなど、ミロンガは日本の民謡とも共通するところがある。(民謡の歌詞は、恋愛や故郷への慕情などだが、本質に於いては、牧畜、農作業、漁労などの間に歌われる労働歌である)
さらに言えば、ミロンガ自体が、白人とインディオの音楽の混交である。田舎者の民謡ミロンガが、都会ブエノスアイレスのイタリア系船員の街「ラ・ボッカ」で、西洋生まれの楽器や旋律と出会い、船員や沖仲仕の集まる酒場の舞踊の曲として生まれたのがタンゴである。タンゴという言葉は、1880年出版された「バルトール」という曲の楽譜表紙で初めて公に使われたとされている。(この時代音楽配信やCDという便利なものはなかったので、音楽の普及は専ら楽譜の出版によった)
それから、僅か16年後、タンゴは海を渡った。アルゼンチン海軍の練習艦サルミエントが欧州を訪問。艦上の軍楽隊がタンゴ「ラ・モローチャ」を演奏し、欧州人に楽譜を配った。この時代の少し前、日本なども万国博覧会に芸者衆を出演させて日本文化を訴求したりしているが、当時西洋文明の片田舎アルゼンチンとしては、タンゴを自らの文化の象徴として訴求したかったのだろう。ともあれ、この海軍の試みが奏功して、港町の演歌タンゴは、近代世界に知られるようになった。
1911 年 ヴィセンテ・グレコ楽団がオルケスタ・ティピカと称する。この頃、ドイツ生まれの楽器バンドネオンが、オルケスタの主役として定着する。
第一次世界大戦を経て、大戦後のヨーロッパには、アルゼンチンからカルロス・ガルデル(1923年渡欧)、フランシスコ・カナロ(1925年渡欧)などの楽団がやってきて、ポピュラーミュージックとしてのタンゴの一大ブームを巻き起こした。この時代、本場アルゼンチンの上流階級は、下層階級の演歌タンゴを白眼視していたのだが、囚われのない若者達によってタンゴは世界に普及し、それを見た故国の上流階級がやっとタンゴを認めるようになったというのも、日本でもありそうな話しである。
本場の泥臭いアルゼンチン・タンゴから、欧州社交界向けの洗練された、甘い旋律のコンチネンタル・タンゴが生まれた。一方で、タンゴの名曲として今日なお一日24時間世界のどこかで必ず演奏されているという「ラ・クンパルシータ」が歌詞付きで流行するようになったのもこの頃のことである。
紙数が、尽きそうなので、最後にアストル・ピアソラという人についてふれる。ピアソラは、1941年にデビューしたバンドネオン奏者、作曲家である。第一次世界大戦後の、ガルデルやカナロ達がタンゴをポピュラーミュージックとして世界の舞台に上げたとすれば、ピアソラの功績は、第二次世界大戦後の新しい世界で、タンゴを基礎としながら、ジャズやクラシックとフュージョンさせ、現代音楽として羽ばたかせたことにあるだろう。守旧派からは、時に「タンゴの破壊者」と譏られたピアソラだが、今日タンゴを知らなくても、ピアソラを知っている音楽ファンは多い。1992年没。
出典:2009 年11月 16日 松井清治「アルゼンチン・タンゴ歴史年表」他より
http://www009.upp.so-net.ne.jp/fial/activity/data/fial_FTS12_0911b.pdf2017年1月1日
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タンゴ その1
この稿の筆者が、大学時代放送のクラブに属していたことは以前書いた。
そのクラブは、百数十人も部員がいる、いわゆる「文連大手」のクラブで、六大学野球のアナウンスやら、学園祭のPA(バンドなどの音声調整、ミキシング)、卒業レコードの制作などでしっかりビジネスをしていて、世間のちょっとしたプロダクションみたいな感じであった。そのビジネスの一環で、学内のバンドに司会者を派遣するという業務があった。
クラブのアナウンス部門に所属する男女の部員を、軽音楽だとか、ハワイアン、ジャズ、タンゴなどのバンドに「出向」させるのである。それらのバンドの司会者は、代々放送のクラブの部員がつとめることになっていて、出向者は四年生になると、適当な後輩をみつくろって後継者として育てるのである。数あるバンドの中で、筆者が何故タンゴの司会者に選ばれたのかは、よくわからない。まあ、ライトミュージックとかモダンジャズの素養には欠けていたから、バンドの中でも比較的「堅そうな」イメージのあるタンゴが良さそうだと言うことになったのかもしれない。その時筆者は、全くタンゴなんていう音楽は知らなかったのだが、「来週から本番だから」とかいわれ、先輩がつくった手書きの曲名紹介のノートと音楽之友社刊「タンゴ入門」とか言う本を渡されて、慌ててそれから勉強することになった。
タンゴが生まれたのは、概ね明治維新の頃。筆者が学生であった1970年代でも約百年しか過ぎていない。南米のインディオの音楽と西洋音楽がほどよく混交して出来た、まあブエノスアイレスの港の酒場から生まれた演歌のような音楽である。あまり上品な音楽ではない。バンドネオンというアコーディオンの鍵盤がなくて両サイドがボタンになっている楽器が特徴で、バイオリンやピアノが奏でる甘いメロディーに、このバンドネオンがチャッチャという刻みのリズムを入れていくのである。歌の内容は、殆ど、女に振られた男の未練を歌うもので、本場では、これにほとんどセックスを様式化したと言えるような妖艶な踊りがつくことになっている。
筆者が、タンゴバンドに出向して司会者を務め始めた時代は、いわゆるパーティー券を売るダンスパーティーの最後の時代であった。体育会などの学生のクラブが、部費稼ぎに、同じく学生のバンドを雇ってきて、ダンスパーティーを催すのである。食べ物や飲み物は現代の政治家のパーティー並みにプアであったが、音楽だけはすばらしかった。
当時は、合コンというものはまだない(筆者が大学を卒業する頃、いわゆる合コンが始まった)ので、このダンパが男女の出会いの場を提供したのである。はじめはワルツ、そのうちタンゴなど踊るのに難しい曲が流れ、最後に明かりが暗くなってスローなテンポの曲が流れて、一同チークダンスという場面になる。筆者も、名前を知らない女子学生とぴったりくっついて、ダンパのチークタイムを過ごしたことが何度かある。
タンゴバンドはダンスパーティーの花であった。一年に何回もダンパをこなせば、貧乏な学生の遊ぶ金くらいは稼ぐことが出来た。やがて、ゴーゴーそしてディスコティックの時代が来て、この難しい音楽で踊ろうという学生の数は次第に減っていった。
~この項続く~2016年12月1日
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裁判員制度
映画TED2を見てきた。
TEDは、魂の入ったテディベアのお話しである。まず、前作TEDを簡単に紹介する。
ボストン郊外に住む少年ジョンは、1985年のクリスマスプレゼントに貰ったテディベアのぬいぐるみを愛し、魂が宿るようにと祈る。その願いが叶って翌朝くまは友達のように口をきく存在になっていた。TEDは一躍町の人気者になり、テレビなどにも出演するがやがて飽きられ、世間も騒がなくなる。それから27年、2012年のボストン。うだつの上がらない中年男ジョンと、親友のTEDは一緒に暮らしている。休日にはマリファナをふかす不良中年の二人。が、ジョンの恋人ローリーに素行不良をとがめられ、出て行ってほしいと言われたTEDはジョンの部屋を離れて、スーパーマーケットに就職、独身生活を始める。そこにTEDを狙う変質者が現れ・・というようなお話し。他愛がないと言えば言えるが、アメリカの中産階級下層のあまり上品でない暮らしや言葉が実によく描かれていて、「あ、これが民主党のアメリカなんだな」と妙に納得させられる。(それに比べれば、本誌「今月の書棚」がしばらく前に取り上げたジャック・ライアンシリーズなどは、明らかに共和党のアメリカの世界である)
さて、TED2では、スーパーのレジ打ちの女の子と結婚したTEDが、ちょっとした夫婦喧嘩が元で、子供を持ちたいと思うところから始まる。ぬいぐるみTEDに生殖能力はないというのが物語上の設定になっていて、TEDはまず人工授精を考える。親友ジョンとの間のヒーロー、フラッシュ・ゴードン(かつてのB級アメリカ映画のスーパーヒーロー)やアメリカンフットボールの有名選手の精子を取得しようとして失敗したり、ジョンの精子を貰おうとして生殖バンクでドタバタ劇を演じたりという場面があった後、TED夫妻は方針を変えて養子を貰おうと斡旋所に行く。人工授精から養子斡旋へというあたりの扱いが、日本ほど深刻かつWETではなく、きわめて「あたりまえ」のこととして推移するのも、いかにも現代のアメリカを感じさせる。ところが、養子斡旋手続きの過程で、TEDが人格を持ち、結婚していること自体が「行政手続きのミスであった」と州政府が言いだし、TEDは戸籍を失い、クレジットカードも、職場も全てを失ってしまう。そこでTEDは、裁判による人格の回復にチャレンジする。(「そこで訴訟」というのも米国の文化だろう)
親友ジョン、アリゾナ州立大出身の若い駆け出し女性弁護士、TED夫妻の4人ティームと、TEDをモノとして扱い、ぬいぐるみの内部を解析して量産しようとする「共和党系の」金持ち企業家+第一話に登場した変質者のコンビが州政府側に加担しての裁判劇が始まる。
この裁判劇について筆者が特筆したいのは、TEDがモノかヒトかという裁判の主題が、150年昔の米国の奴隷解放裁判にすべてアナロジーされていることと、第一審で負けたTED側に、有名な黒人人権弁護士が「陪審員は、理屈ではなく人間的な感情によって裁く」という助言を与えるシーンである。結末に飛べば、TEDはそのヒトの情に訴えて見事勝訴するのだが、「裁判員裁判は理屈じゃない」という言葉が、妙に印象に残る映画であった。
2016年11月1日