その昔(戦前期)の東京帝国大学に、平泉澄(1895-1984年)という有名な歴史学の教授がいた。
いわゆる皇国史観イデオローグの代表者で、皇室や軍とも通じており、歴史学者の立場から皇国史観教育への啓蒙や、折々の政治・政局への発言も行った。今回本欄はその平泉教授の事績を取り上げるのが目的ではないので詳述は避けるが、平たく言えば戦前の大物右翼学者であった。
さてその平泉教授の所の研究室だか、ゼミナールだかのお弟子が、論文指導を受けに行って、「中世農民の歴史を研究したい」と希望をのべたところ、言下に「君、豚に歴史がありますか」と問われて、許してもらえなかったという話がある。つまり、平泉氏の見解によれば、歴史というものは、楠木正成であっても足利尊氏であっても、正邪はあれども皆「名のある」人々によってつくられるのであり、豚に等しい「名もなき庶民」には歴史などはない、ということになる。昭和初め頃までの歴史学の世界では、唯物史観を掲げるマルクシストもかなり有力であったから、平泉氏は「農民の歴史を研究したい」という弟子の希望に、どことなく大嫌いな左翼歴史学の臭いを嗅いで過剰に反応したというところなのかもしれない。一方でその左翼歴史学はどうであったかというと、歴史にアプローチする方法論としてはたしかに唯物弁証法を掲げてはいたが、スターリンや毛沢東の「歴史学」と称する著作を少し読んでみると、これまでの歴史上の出来事を説明するのにそうした方法論を用いて、自らが「社会科学的なアプローチをしている」と称しているだけで、農民や労働者の中で生じた区々たる歴史そのものを詳しく研究しているわけでもない。スターリンや毛沢東は楠木、トロツキーや劉少奇は足利とアナロジーしてみれば、その正邪を言っているに過ぎないところは、平泉史学とどこか似ていないこともない。
日本の歴史学において、ほんとうに庶民の歴史に分け入って、その中身を研究することから社会の全体像を構築する方法を編み出していったのは戦後になってからである。中でも、平泉から「農民の研究」を拒絶された次の世代、具体的な名を言えば網野善彦(1928-2004年)辺りが出るに及んで、はじめて左翼史学が言うところの括弧付きの「社会科学的アプローチ」を超えて、実証史学的アプローチの実が結ばれるようになったと、この稿の筆者は評価している。
網野義彦は第二次世界大戦直後の左翼運動の出身で、網野史学も、網野義彦本人の直観によって、実証の不足を補っているという批判があり、完全な実証主義に基づいているとは言えないかもしれない。が、少なくとも「名もなき庶民」の遺した一次資料を丹念に発掘し、読み込むことの中から、従来捉えられてきた日本歴史の像を覆す新しい全体像を構築して見せ、それを学界に問うたことは、大きな事績と言わなければならない。それは例えば、南北朝期で言えば、庶民の中に埋もれた一次資料を見いだすことの中から、「足利尊氏は実は忠臣だった」ことを発見して正邪をあらためるのではなく、「楠木正成は武士ではなく悪党というものであった」ことを発見し、各地に存在した悪党と称する人々が、鎌倉武士の(守護地頭)秩序に包摂されない、そして一部は農耕生産にすら依存しない存在であったことを示すようなことであった。網野の中世日本研究の中では、とくに天皇を中心とする荘園秩序vs武士(守護地頭)の支配という対立軸の外に、職人、芸人、陸海の運輸業者など、移動して定住しない人々を、第三勢力として定義したことが顕著な実績として挙げられる。「豚の歴史」の研究は、けっして無意味なことではなかったのである。