筆者は、学生時代、放送研究会に所属して、ラジオドラマの脚本を書いたり、演出をしたりしていた。もう三十年近く前の話だが、それでも当時の社会は、すでにテレビ全盛の時代になっており、ラジオドラマなどと言うものは、民放では特別編成の時だけ、NHKがかろうじて、週に二本放送している程度だった。
その時代に、私達学生が、映像を用いたテレビドラマではなく、音声だけのラジオドラマに固執していた理由は、本当のところを言えば、単にカネがなかっただけのことなのかもしれないが、自分達では、一応もっともらしい理屈をつけていた。その理屈とは、「私達の創造する芸術は、イマージュの完全な伝達を求めるものではなく、個々の聴き手を音声で刺激して、聴き手各自が想像力でイマージュを創りあげるのを助けようとするものだ」というものだった。
たとえば、サウンド・エフェクト(効果音)が、怪しげな足音を流す。足音は向こうから此方へやってくる。ドラマの筋から推理すると、どうも主人公を逮捕しに来る警察官らしい。さて、その警察官が私服なのか、制服なのか、公安なのか刑事なのか、どんな顔をしている何歳くらいの、そもそも男なのか、女なのか、それらはみなドラマの作者の側が「与える」のではなく、聴き手に「想像してもらう」訳である。もしテレビや映画などの映像芸術であれば、近づいてくる足音の主をカメラが捉えた瞬間に、足音の主の像は「与えられて」しまうのだが、ラジオドラマは、聴き手に考えてもらい、想像してもらうのである。だから音声によるドラマは、映像によるドラマより聴き手に知的営為を求める。それゆえ知的な聴き手にとって面白いかもしれないが、疲れる。大衆が映画からさらにテレビへと流れていったのは、まさにその疲れるのが嫌で、受け身で「与えられる」ことを求めたからかもしれない。
ともあれ、学生の屁理屈にしては、我ながら、なんとも奥ゆかしい理屈ではあったと思うのだが、私達は、「だから音声によるドラマの試みにこだわりたい」と大まじめに言い合っては、つたないラジオドラマの制作に励んでいた。
さて、この理屈は、「他者とのイマージュの共有を求める」というあつかましい姿勢から、一歩下がって、おのれが創造したイマージュの情報量をわざと落として、他者の想像力を刺激しようとすると言う点で、詩や、俳句の世界にも大きな示唆を与えるのではないかと思う。
芸術家が自己の内部にかたちづくった世界そのものを、他者に「伝えること」=移し植えることを一度断念して、いくつかのイマージュの要素だけを他者に伝達し、それを受け止めた聴き手は、伝えられた要素を手がかりに、自分のイマージュの世界を「再構成する」。ラジオドラマの聴取者は、ひとりひとり別のドラマを自らの内に再構成しているのであって、「同じドラマ」を聴いているのではない。
そうした、間接的なコミュニケーションの有り様は、詩歌の世界では俳句が、映像の世界ではモノクロームの静止画像が担っているのだと思う。
五七五僅か十七文字の句が切り取る、世界の一部。モノクロームの静止画像が切り取る「対象に寄った」クローズアップも世界の一部分である。それは示されたものの底辺に広がる大きな世界を、単に象徴するのではなく、顕れ示されたものの底に、様々な受け手のイマージュをルーツとして持っているのではないだろうか。ラジオドラマの奥は深い。