本欄で幾度か、思春期の子供達の教育制度に触れてきた。この稿の筆者の主張は、要約して言えば、学校という一つの秩序に青少年の全生活を預けるべきではないということにある。中学校、高校はすべからく知識と教養を授ける府とし、スポーツ、音楽等現在部活動に委ねられている分野は、地域の倶楽部制にして、少年少女が家庭も含めて複数の教育の場面を持つようにすべきだというのがその内容である。理由は、少年少女が流動し変化する社会の中で、自立した個人として育ってほしいからである。
そうした視野を持ちつつ、前近代のとくにムラ社会において今日の学校の役割を果たしていた、若衆(若者)宿、娘宿について、今月は取り上げていきたい。まず二つの前提を記しておく。江戸時代の後半くらいを考えてみると、村落共同体と武士社会では、青少年教育のあり方が根本的に違っていた。武士は幼少期から儒教の素読などを学んだ後、藩校など近代の学校に近い教育機関で文武を学び、成長すると概ね身分秩序の中で、自分の家にふさわしい勤務に就いた。(次、三男は養子の口探しに励んだ)一方、村社会では、寺子屋というようなものはあったが、現在の中等教育の年代に入ると、昼間は男女ともに農作業周りの労働に従事した。彼ら彼女らにとって中等教育らしいものは夜間、これから紹介する、若衆宿や娘宿で行われる夜語りの中で授けられた。(武士階級でみられた若衆宿の例は、薩摩郷中などきわめて稀だという)
もう一つ、大切なことは男女間の道徳も、武士と庶民では全く異なっていたことである。武士の世界では、「男女七歳にして席を同じうせず」という儒教道徳が徹底していて、とくに嫁入り前の女性は、正月や冠婚葬祭は別として、年中家にこもりきりで、他家や他身分の男性とは話すことはおろか顔さえ見せなかった。一方ムラの世界では、男女の関係は比較的おおらかで、若衆宿と娘宿の交流が、夜這いに発展したり、ムラの若い衆の初体験を、村内のやや年増の未亡人が司ったりした。つまり、教育と性道徳二つにおいて、武士と庶民では全く違う世界が並行していたということなのだ。
さて、若衆宿では昼の仕事と夕食を終えた若者達が集まり、時として酒を飲み、彼らだけの自治の世界の中で、先輩から世間知や農事を学んだ。『しごきがある。共同労働がある。山火事が起きたら火を消す。津波、洪水が起きれば救難の仕事に当たる。村が襲われれば、それをはねのける軍事的な役割も果たす。~中略~若者宿のおきてを破る者は、徹底的に村八分的な制裁を受ける・・・』ⅰ一方娘宿はというと『特定の民家や納屋を娘宿とし、夕食をすませると娘たちが集合して、縄をなったり、草履を作ったり、裁縫などの夜なべ仕事をした。~中略~宿を提供した家の主人や主婦が宿親として娘をしつけ、配偶者選びの助言者にもなった。~中略~さらに、ヨバイといい、若者が夜分娘宿に行き、意中の娘の寝床に入り、もし気持ちが受け入れられれば婚姻関係が成立するというものもあった。この場合のヨバイとは、俗に言われるような、男性が女性の寝床に忍び込んで情交を結ぶというものとは違った。若者は自分の親にヨバイの相手を相談し、宿親や娘も承知したオープンな配偶者探しの手段であった。しかし、全く夜遊び的なヨバイもなくはなかったらしい。』ⅱ
これら庶民の夜の中等教育の世界は、明治になって近代国家建設と共に、「貞操観念がない」とされ、上から統制される青年団と処女会(!)に再編された。青年団は立派な兵士を生むための機関に、処女会は銃後の女性を育てる機関となっていったのだ。
ⅰ 司馬遼太郎没後10年シンポジウム 「街道をゆく」の世界【基調講演】山折哲雄氏
http://www.asahi.com/sympo/060512/02.html
ⅱ 青年団の活動で消滅-若者の男女交際の場「娘宿」三重県環境生活部文化振興課県史編さん班
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken2/detail.asp?record=399